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韓国が日本を見下す理由(元海上保安官:一色正春さん執筆)

※転載元http://ironna.jp/article/1497?p=1

前回、韓国がなぜ反日活動を執拗に行うのかを説明し、
その問題を根本的に解決するためには、歴史を直視する事が必要であると結びました。
そこで今回は、日韓の近代史を振り返って見ましょう。

西暦1392年、それまで朝鮮半島を支配していた高麗王朝の王位を李成桂という男が簒奪しました。
彼はすぐさま明に使者を送り皇帝に国名を選んでもらいました。それが二十世紀初頭まで続いた朝鮮という国です。

19世紀中頃になると、当時、世界を覆いつくさんばかりの欧米列強の魔の手が、
とうとう北東アジアにも伸びてきました。まず、清国が阿片戦争で血祭りにあげられ、
その後、西欧諸国は日本や朝鮮に対しても、首都の近くまで船を進めて開国を迫るようになってきました。
日本における、その典型的な事件がアメリカのペリー提督率いる黒船来航でした。

当初、日本では、外国人を国内に入れるなという意見が大勢を占めていましたが、
欧米の科学力に裏打ちされた軍事力を知るにつけ「これは、
とてもかなわない」と思う人間が増えはじめ、
更に清国の現状を知り「日本も欧米の植民地にされるかもしれない」という猛烈な危機感を抱いた人たちが、
欧米に対抗すべく中央集権体制の国家を樹立したのが明治維新です。

そして西欧列強国に対抗するには、彼らから学ぶしかないと考えた日本政府の要人たちは、
なりふり構わず西洋の社会システムを模倣しました。
また、彼らの軍事的脅威に対抗するために隣国の朝鮮と同盟を結ぼうと考え、
国の統治体系が変わったこともあり、改めて国交を結ぶべく使者を送ったのが西暦1868年です。

当時、欧米の軍事力は圧倒的に日本を凌駕していたのですから
日本の立場としては少しでも仲間が多い方が良いと思うのは当然のことであり、
また、朝鮮が日本を狙う侵略国に占領されてしまえば、
その地理的位置から自国の防衛が非常に困難になるため、
日本としては、何としても朝鮮と同盟関係を結ばねばならなかったのです。

ところが朝鮮は、長らく華夷秩序体制
(中華皇帝を中心とした国際関係。周辺諸国を夷狄の王として中国より格下に位置付けた冊封体制)
の中にいたため自分達より中華から遠い日本を蔑視していただけではなく、
西洋人を夷狄として忌み嫌っていました。
その外国と条約を結んだ日本から中華皇帝以外に使用を許されない「皇」の字が入った親書が来たものですから、
親書の受け取り自体を拒否したのです。

本来、日本は中華冊封体制の外に位置し、
独自の天皇を頂く国ですから「皇」の字を使用したとしても何の問題もないのですが、
朝鮮側の一方的な思い込みにより国交樹立のための交渉のテーブルに着くことすらかないませんでした。
(高まる中国や北朝鮮の脅威に日韓が連携して対抗しなければならないというのに、
日本にとっては言いがかりの理由で会談すら拒否する、
今の大統領を見れば、こういうところは何も変わっていないことが良く分かるでしょう)

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西郷隆盛

そこで、日本国内に巻き起こったのが、朝鮮に出兵して武力で従わせようとする「征韓論」です。
しかし、当時、参議であった西郷隆盛は自分が全権大使として朝鮮を説得し、
平和的に同盟を結ぶと言い張り、西郷大使の派遣は実現まであと一歩の段階まで迫ったのですが、
日本国内の政変により日の目を見ませんでした。

簡単ではなかった朝鮮の独立

その後、日朝両国は互いに国内の政変などの紆余曲折を経た後、
江華島事件を契機として「日朝修好条規」を締結しました。
この条約は、この時代における他の条約と同様、
ご多分に漏れず不平等条約でしたが、一つ大きな違いがありました。

それは第一条において「朝鮮は自主の国であり、
日本と平等の権利を有する国家と認める」と、わざわざ朝鮮が独立国家であると謳っていることです。
しかも日本は、この日朝修好条規締結の5年前、清との間に両国が対等である事を確認した
「日清修好条規」条約を結んでいました。
つまり日本=清、日本=朝鮮という対等関係になれば長
年主従関係にあった清国と朝鮮も清=朝鮮という対等関係になるという理屈です。

しかし、ことはそう簡単に行くはずもなく朝鮮の独立には、それからも歳月を要しました。
とはいえ、この条約をきっかけに、建国から約500年の時を経た朝鮮が、
ようやく独立への第一歩を踏み出したことには間違いありません。
ただし、ここで確認しておかねばならないのは、
日本は善意だけで朝鮮を独立させようとしていたのではないということです。

例えが適当かどうかわかりませんが、自分の二軒隣の家が燃えている場面を想像してください。
隣の人は、そんな大変な時だというのに、自分の住んでいる家は借家なので、
燃えても仕方ないと思って逃げ出そうとしているようなものでした。
当時の国際社会には消防局もなく、
しかも日本は新しい家の建築中で他家の消火活動を行う余裕がなかったのですから、
隣の朝鮮に住んでいる人たちに、本当は借家ではなく自分の家であるとの自覚を持ってもらい、
自分の家は自分で消火してもらおうと懸命だったのです。

そのために日本は朝鮮の自主独立派に軍事顧問を送るなどして援助し、
清からの独立を後押しした結果、その独立派が政治の主導権を握り、
そのまま朝鮮も近代化への道を歩むかと思われましたが、
従来通り清の冊封体制を維持しようとする守旧派がクーデターを起こしたため、
一転して独立派は窮地に陥りました。

朝鮮では古来より外国勢力の助けを借りて政敵を倒すのが常套手段でしたから、
この時も独立派は遅滞なく外国勢力に助けを求めたのですが、
問題は、その相手です。この時、独立派の頭目である閔妃が頼ったのは
従来から付き合いがあり独立を支援してくれる日本ではなく、
対立する守旧派の後ろ盾である清の軍人袁世凱でした。

結果、従来からの親清派でクーデターの首謀者である大院君(国王の父)は清に捕らえられ、
その一派と対立していた日本寄りの閔妃が、一夜にして親清派に転向したのです。
もはや国家国民や政策など関係なく、ただ己の権力を維持するための争いでしかなかったというわけです。

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中華民国の初代総統:袁世凱

このような行動は我々日本人には理解しにくいところですが、
もともと裏切りによってできた国であり、事大主義政策が国是とも言える朝鮮にとっては当たり前のことで、
また一方の袁世凱にとっても朝鮮を牛耳る、またとない機会なので断る理由はなく、
結局、割を食ったのは朝鮮独立のために援助し続けてきた挙句、
いともたやすく裏切られた日本だけだということです。

朝鮮の基本政策である事大主義を日本の諺で言えば「長い物には巻かれろ」という意味で、
長年、大国に隣接してきた小国としては、ある意味当然の選択だったのかもしれません。
当時の清は大国でしたが、一方の日本は、まだまだ弱小国だったのです。
弱小国の日本は、この動乱で自国の公使館が襲撃を受け、
軍事顧問や外交官が殺傷されましたが何も出来ず、
朝鮮独立のために尽くした日本の努力は水泡に帰したのでした。

こうして朝鮮は王の外威である閔氏一族が近代国家への道を閉ざし、
再び国民の生活を顧みない政治を行うようになりました。
しかし、朝鮮にも心から祖国を憂う骨のある人間がおり、
この二年後にクーデターを起こして閔氏一族を追放し、国王を皇帝と改め朝鮮の独立を宣言しました。
ところが、またも閔氏の要請により出動した清軍によって独立派が駆逐され
朝鮮の独立はわずか三日で終わってしまいました。
まったく自国の独立運動を自国民が妨害するのですから、どうしようもありません。

結局のところ、この時代の朝鮮の権力者たちは己の権力を如何に保持するのかという事しか頭になく、
国家の独立、ましてや民の暮らしの事などは全く考えていなかったのです。
そして、この動乱の際にも、また多くの日本人居留民が犠牲になりました。
このような私利私欲のための裏切り行為や反対派に対する鬼畜のような残忍な所業を目の当たりにして、
忍耐強い日本人の中にも朝鮮や清に愛想を尽かす人が多くなり始め、
その意見の代表的なものが、このころ発表された福沢諭吉の「脱亜論」です。


日本としては自身が関与しなくとも朝鮮が名実ともに独立してくれさえすれば良く、
あえて手のかかる朝鮮半島から手を退きたかったのですが、
その後に清が居座るようになっては困るので、天津条約を結び両国が同条件で撤兵することとしました。
このとき日本は外国からの侵略などの特殊なケースを除き
朝鮮半島から永久に撤兵すべきであると主張しましたが、
清としては属国である朝鮮の内乱などに「宗主国が出兵するのは当然だ」と一歩も譲らず、
最終的に互いの国が、今後、朝鮮半島に派兵する場合は相互通知することで合意しました。

ロシアにすり寄る朝鮮

ようやく日清両国が兵を退き、平和になるかと思われた朝鮮半島でしたが、
相変わらず朝鮮は自立するでもなく、新たな後ろ盾を求めて今度はロシアに接近し始めました。
そんなことをすれば宗主国の清が黙っているはずもなく、
袁世凱は閔氏一族のライバルである大院君を伴って朝鮮に乗り込み
朝鮮政府を指導する立場に就任しました。

しかし、それでも朝鮮国王はロシアへの接近を止めませんでした。そ
の心境は「自分で独立するのは面倒なので誰かに頼りたいが、
特定の誰かには支配されたくない」という感じなのでしょうか、
清の顔色を伺いながら、あちこちの国に色目を使うさまは、なんとも哀れとしか言いようがありません。

それでも朝鮮政府は一定の開化政策を試み、欧米諸国から借金をしようとしますが、
朝鮮独自の発展を望まない宗主国の清が許すはずもなく、
様々な政策が、ことごとく失敗に終わり、それでも王侯貴族たちは民衆の生活を顧みなかったので、
庶民の間にどんどんと不満が高まっていきました。

そして1884年に朝鮮国内で大規模な反乱が起きたのですが、
事態を収拾する能力がなかった朝鮮政府は、またも清に派兵を要請しました。
それを受けた日本も過去の動乱で自国民が虐殺された経験から、
天津条約に基づき居留民保護のために派兵しました。
そして反乱が収まっても日清両国が一歩も引かず、とうとう戦争になったのです。それが日清戦争です。

この戦争は詰まる所、朝鮮における日清両国の権力闘争でしたが、
その影響は朝鮮半島にとどまらず、広く、その後のアジアの運命を大きく変えました。
もし、清が勝利していれば、朝鮮はもとよりアジアの多くの国は、今でも欧米の支配下にあったかもしれません。

何故ならば、日本が朝鮮の独立のために戦ったのに対して、
清は現状維持=植民地支配肯定が戦争の目的だったからです。
事実、日本は「宣戦ノ詔勅」から「講和条約」に至るまで終始一貫して朝鮮の独立を謳い、そのために戦いました。

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日清講和条約が締結された割烹旅館。日清講和記念館には
会議の様子を描いた画なども展示している

それは、日清講和条約(下関条約)第一条を見れば良く分かることで、
そこには
「淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス
因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」と
明記されています。

講和条約=戦争の目的=朝鮮の独立ということで、しかも条約において
一番重要なことを定める第一条に明記されているのですから、
これ以上の説明は不要でしょう。
なにも日本が純粋に朝鮮の独立のためだけに戦ったと言うつもりはありません。
当然、自国の利益のために戦ったのですが、いくら自国の利益のためとは言え、
古今東西、当事国が何もしないのに、
勝てる見込みの少ない戦争を他国の独立のために多大な犠牲を払って戦った国があったでしょうか。

そして、その言葉通り朝鮮は、日本の勝利により有史以降初めて独立したのでした。
その象徴が、それまで建っていた属国の証である「迎恩門」
(歴代朝鮮王が中国皇帝の使者を迎えるために建てられていた門)
を取り壊し、文字通り朝鮮の清からの独立を記念して、その隣に建てられた「独立門」です。

独立門は、現在も韓国の首都ソウルにある西大門に建っていますが、
多くの韓国人が、この門について日本から独立したときに建てられたものだと誤解しています。
普通に考えると、この門が完成した1897年11月20日という日付を見れば、
直ぐその間違いに気が付きそうなものですが、それすら分からないということは、
韓国において歴史は事実である必要がないということなのでしょう。

もう一点、韓国の歴史観を教えてくれるのが、この「独立門」の扁額は李完用の作品だということです。
彼は日韓併合条約に調印した人物で、
本当のところはともかく韓国国民からは親日派=売国奴ナンバーワンとも言われ、
2007年に作られた事後法により、彼の子孫は財産を強制的に没収されるくらい憎まれています。

それなのに、その彼の作品が史跡として登録され、
そこに多くの人が観光に訪れているのを見れば、
いかに韓国国民の多くが歴史の事実を知らないのかということが良く分かります。

さて、それはともかく日本と清の講和条約により、目出度く独立国となった朝鮮。
日本としては多大な犠牲を払って獲得した独立ですから、
彼らが自力で国家発展の道を歩んでくれるものと期待していましたが、そうはいかないのが朝鮮という国です。

彼らは、口では独立と言っていましたが、
とても当時の国際社会の荒波を乗り切っていけるだけの力はなく、
彼らも本心は独立が現実的ではないことを理解していました。
ですから、当初は単に宗主国を、戦争に負けた清から勝った日本に乗り換えるくらいのつもりだったのでしょう。

しかし、日清講和条約締結のわずか6日後に起きた「三国干渉」により、事態は一変します。
三国干渉とは、日清戦争において日本の勝利が濃厚になり、
自国の満州や支那における権益に対して
危機感を持ったロシアがドイツとフランスを巻き込んで日本に圧力をかけ、
日本に日清戦争で血を流して獲得した大陸における権益を放棄させた事件です。

その大義名分が、日本が遼東半島を所有すれば「極東平和の妨げになる」というものでした。
しかし、日本が放棄させられた権益は、
その後、彼ら自身があの手この手で清から奪いとったのですから無茶苦茶という他ありません。
しかし、この時代は力こそ正義であり弱小国日本としては黙るしかありませんでした。
一つ言える事は、いつの時代も臆面もなく「平和」という言葉を使う人間や国は信用出来ないということです。

その結果、朝鮮は宗主国を日本からロシアへと乗り換えました。
朝鮮としては、宗主国は強いことが第一条件ですから、
より長いものにまかれることは当然の行動でした。
しかし、日本としては多大な犠牲を払って獲得した朝鮮の独立や日本の権益が失われることを座視できるはずもなく、
それに呼応した日本派とロシア派の争いが朝鮮政府内で勃発し、
しまいには国王がロシア公館に逃げ込む事態にまで発展しました。

その後、国王を手の内に取り込んだロシアは朝鮮での権益をどんどんと拡大させていきます。
日本としては日清戦争で多大な犠牲を払ったにもかかわらず大
陸での権益を三国干渉で横取りされたうえ、
また朝鮮での権益を横取りされそうになっているわけですから、たまったものではありませんでした。

しかも、前述したとおり朝鮮をロシアにとられるということは
権益云々というより国家としての死活問題なわけですから、
これだけは譲れなかったのです。当初、ロシアに対して大幅に国力が劣る日本は
懸命に外交努力を重ねましたが、力(軍事力)なき外交はみじめなものでした。

当時、世界一の陸軍国であるロシアは東洋の島国のことなど歯牙にもかけず、
だんだんと交渉の余地はなくなり、とうとう日露戦争が勃発してしまいました。
結果、辛くも日本は勝利をおさめましたが、相変わらず朝鮮は大韓帝国と名を変えてもシャキッとしません。

日本としては、二度の戦争を行い朝鮮半島や満州におけるロシアの影響力を排除したものの、
相変わらず大韓帝国が、またふらふらと他国にすり寄ってはかなわないので、保護国としました。
しかし、彼らは相変わらず密使を送るなど、ちょろちょろとした動きを止めませんでした。
そのような彼らの行動に対して日本国内では「朝鮮併合すべし」という意見が強くなってきました。

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伊藤博文

しかし、一方で財政上の理由などで反対する人も沢山おり、
この問題は文字通り賛成派と反対派で国論を二分していましたが、
その状態にけりをつけたのが現在韓国で英雄と崇められている安重根その人です。
彼が併合に慎重だった伊藤博文を暗殺したため、日本国内の世論は、一挙に併合賛成へと傾いたのです。

「英雄視」の疑問

この事件についても現在の韓国では、韓国義勇軍による戦闘行為だったと教えていますが、
当時の法令や常識に照らしても理解不可能な話です。
第三国の領土において軍服を着用せず、非戦闘員に対して、
いきなり銃口を向けるという卑怯な手段により殺害した行為を独立戦争と呼ぶのはあまりにも常軌を逸しています。


さらに彼の主張は、暗殺後に行われた裁判での陳述や彼が唱えた東洋平和論を読めば分かるのですが、
特段、反日思想に凝り固まっているわけではなく、
欧米列強の侵略に対する日中韓の連携を呼びかけているだけで、
暗殺は当時の朝鮮人が持つ伊藤博文個人に対する誤った認識に基づくものであったと考えるのが妥当です。

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安重根義士記念館敷地内に建立された
安重根像=韓国・ソウル市内

いずれにしても、自国が日本に併合されるきっかけを作った人物を、
彼の本心を理解せぬまま、ただ単に日本の偉人を殺害したという理由だけで
英雄視しているというのは実に皮肉なものです。
まあ、客観的に見れば日本と併合して初めて朝鮮が近代化したわけですから、
ある意味祖国を救った英雄とも言えますが・・・。


少し話はそれますが、他にも、韓国では上海天長節爆弾事件で日本人2名を殺害し、
中国国民党から大金をもらったとされる尹奉吉も英雄視されています。
とにもかくにも、現代韓国においては手段や動機にかかわらず
日本の要人を殺害した人間が英雄視されているのが現実なのです。


普通に考えれば他国の要人を暗殺した人物を国家が英雄として崇め奉るというのは、
その国のことを見下していなければできない行為で、
韓国人が日本人には何をやっても構わないと思っている証拠です。

話しを日韓併合に戻しますが、
現代韓国では日本が武力で大韓帝国を植民地にしたと信じている人が少なくはありません。
しかし、日本は国対国として朝鮮に武力を行使したことはなく(正当防衛等の突発事案は除く)、
日韓双方が平和裏に話し合った合意に基いて、国際法に則った手続きにより大日本帝国が大韓帝国を併合したのです。

また、植民地と併合では全く意味が違います。
イギリスを例に挙げれば、イギリスはアメリカやインドを「植民地」として支配しましたが、
北アイルランドやスコットランドは「併合」して同じ国になり、現在もそのままです。

また、日韓併合を会社に例えるならば、業績が悪化した会社(朝鮮)をベンチャー企業(日本)が、
子会社にするのではなく吸収合併したようなものです。
その結果、日本が朝鮮の借金を棒引きし、インフラ整備などに莫大な資金を費やしたのは、
同じ国になったのですから当然のことです。

そして、その過程で新会社の方式を取り入れて従来の方式を廃止することもあれば、
人事の面でいろいろと差が出たりするのは会社合併でよく見られる光景と同じです。
そんな中でも日本は朝鮮の王家に敬意を払い、王族や一部の貴族を併合後も、その地位にとどめました。

にもかかわらず、何が何でも日本が無理矢理朝鮮を植民地にしたというのは、
当時、韓国最大の政治団体「一進会」が併合に対して積極的賛成であったという事実をも無視し、
当時の人たちが無能で無為無策だったために併合されたと言っているのと同じことで、実に彼らを馬鹿にした話です。


ちなみに、当時の弱小国日本は、三国干渉の苦い経験から事前に日韓併合について主要国に打診しており、
その結果、米英は賛成し、清国を含む、その他の主要国から反対の声は全くありませんでした。
(それどころか米英から「韓国の面倒を見るように」と、押し付けられたという説もあります)

こうして、新生日本が朝鮮に親書を送ってから42年の歳月をかけて、
ようやく日本は朝鮮半島の住人とともに西欧列強と戦うスタートラインについたのでした。




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