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二日市保養所、戦後の日本人引き揚げ時の朝鮮半島での悲惨な史実

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桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍

終戦の翌年、1946年の春、日本に帰還していた京城
(大韓民国の首都ソウル。日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。

日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、二日市へ集結した。

対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも日赤の事務長から連絡を受け、
用件も明確には伝えられないまま、二日市に赴いた。

そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、
二日市保養所でその勤務にあたった。

二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた在外同胞援護会救療部によって、
戦時中の愛国婦人会保養所の建物を利用し、1946年3月に開設された。

引揚の混乱の中で暴行を受け、
妊娠した女性の中絶や性病の治療等に約1年半にわたって携った。

2005年9月末、私は、筑紫野の女性グループならびに
『関釜裁判を支援する会』事務局のメンバーと一緒に、
二日市保養所に看護師として勤務した経験をもつ村石正子さんからお話を聞く機会を得た。

二日市は、古い温泉街しかない寂しい場所だったと村石さんは、当時を回想する。
人目につかぬよう、鄙びた温泉地の奥にその場所は、選定されたのであろう。

朝鮮半島や中国東北部に取り残された日本人居留民の引揚救護活動を行なうべく、
旧京城帝大医学部関係者によって戦後すぐに設立されたソウルの「罹災者病院」や
朝鮮各地を廻った「移動医療局」の活動は、

文化人類学者・泉靖一氏の巧みな手腕によって「在外同胞援護会救療部」へと組織化され、
旧厚生省の援助をも引き出し、様々な引揚救護活動に従事することになった。

保養所の設置には、旧京城帝国大学医学部の関係者が関与していたためか、
開設の当初、村石さんら京城日赤の看護師が召集を受けた。

日赤で1年、上の上級生が班長となった。

村石さんと同様に他の看護師たちも自分たちが何故この地に呼ばれたのか、
はっきりとした職務を告げられた者はいなかった。

〈不法妊娠〉が云々ということは聞いたが、
それが具体的に何を意味しているのかわからなかったという。

保養所の2階に部屋をあてがわれ、そこでの生活が始まった。

建物は老朽化した2階家で、1階の1室が、手術室として使用された。
そこは以前、風呂場であったのか、床がタイル張りで手術台が1台置かれていたという。
棚には脱脂綿やガーゼ等、最小限の医療用具しか準備されていなかった。

大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、運ばれてくる女性たちの姿を見て、
村石さんは、事の次第を理解した。

異形の者…彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。

一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を風呂敷で巻き、
汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、次々と保養所に運ばれてきた。

引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く刈り込んでいたが、
膨らんだおなかを見れば、それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、
いや増すばかりだった。

戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく必ず性暴力の被害が生じる。

この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、
蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。

更にこのような状況下でも生身の女性の体は受胎し、加害男性の子を宿してしまう。

人間という個体の生殖の営みが、
これ程、哀しく不条理なものであると感じられることはない。

凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、
女性たちは概して無言のままだったという。迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった。

まず、「お風呂に入りましょうか。」と入浴をすすめ、
衣服の着替えを用意し、2~3日休養してもらう手順だった。

旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた。

手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた。精神と肉体に凄まじい傷を負い、
言葉を半ば喪失していた女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えたという。

妊娠7ヶ月になる女性の手術に村石さんは、偶然、居合わせたために立ち会うことになる。
7ヶ月になるとお産と一緒のため、ドクターの他に助産婦1人も手術に駆り出された。

生まれ出た嬰児は、7ヶ月とは思えないくらい大きく、
赤い髪と白い肌を持った美しい女の赤ちゃんだったという。

ロシア人との混血なのか色白で端正な顔立ちを村石さんは、
60年後の今も不思議に忘れることはできない。

女性は、自らが産み落とした子どもの産声を聞くと反射的に乳/房が張ってくる。
母親としての感情も自ずと生起してくる。

そのため、産声を聞かせまいと嬰児は、すぐ首を絞められ、窒息させる手筈になっていた。
更に医師が頭にメスを入れる。声を挙げることもなく、無辜の命は暗闇の中へ押し戻される。

しかし、その折だけは違っていた。

お昼の食事を済ました後、手術室の前を通りかかると、
どこからか猫の鳴き声のようなものが聞こえてきた。

手術室を覗くと、頭にメスが立てられたまま、
それでも絶命することなく赤ちゃんが泣いていたという。

村石さんは気が動転し、慌てて「先生、先生!」と手術した医師を引き戻した。

再び窒息させられた嬰児は、もう二度とこの世に声を発することはなかった。

村石さんは、この折の記憶だけは他の同僚にも長年、語ることはできなかったという。

多くの嬰児の遺骸がどのように処理されたのか、はっきりとしたことは不明である。

一部はホルマリン漬けにされ、大学病院へ引き渡されたとか、
保養所の敷地に埋められたという証言がある。

(『証言・二日市保養所』引揚げ港・博多を考える集い編、
『沈黙の40年』武田繁太郎、『水子の譜』上坪隆)

しかし、村石さんは、一度病院の廊下から嬰児の遺骸を埋めている様子を目撃した。

保養所の雑用をしていた年配の男性が、桜の樹の下に埋めていた。その人は、
どういう関係になるのか小さな子どもも含め、家族で保養所に住み込んでいたという。

無心に作業する老人の傍らには、薄紅色の蕾を膨らませ、
満開に咲き競い、やがて散りゆく桜の樹が控えていた。

終戦から約半年が過ぎた1946年春のことである。
文字通り桜の樹の下には、小さき屍が無数に埋まっていた。

かつて、来る日も来る日も堕胎された嬰児の遺骸を土中に埋める作業を繰り返していた
初老の男性がいた。

黙々と、春の柔らかい日差しを受けながら桜の根元の土を掘り、埋葬していったのだ。

この人は何を思い、土を掘り返していたのだろう…あるいは敢えてもの思うことは、
回避していたのだろうか。

こうして戦争が終わるたびに誰かが、埋葬のため土を掘り返してこなければならなかった。
その営為は、過去から現在まで綿々と繰り返されている。

引揚途上で、日本人の女性が蒙った惨禍については、周知の事実として広く知られている。

しかし、ここでも戦争だった。
仕様がなかったことなのだ…という戦争に纏わる諦念が支配し、
被害女性の苦悩の実相は、固く封印されてきた。

まして、始末された嬰児たちが何ゆえに生を享け、
何ゆえに光を見ることなく闇に引き戻されなければならなかったのか。

-《戦争》という1文字に塗りつぶされ、誰もその核心に触れることなどできない。

保養所創設に関わった旧京城帝国大学関係者は、
自殺や精神障害が相次ぐ被害女性の惨状を見るにみかね、
当時、堕胎は違法であったにも関わらず、保養所開設に踏み切った。

後ろ盾となる大学も失い、ある意味、自由な立場で事態に向き合おうとした。

しかし、旧厚生省の立場は、相違した。

「水際作戦」と称し、大陸から引揚げてくる女性たちを港で隈なく検査し、
異民族の血の流入を水際で食止め、性病の蔓延を予防するモそのような意図を持って、
傷ついた女性たちを遇していた。

《民族浄化》という概念は、人間の生、性、死―人間の存在そのものを凌辱していく。

二日市保養所とは別に旧厚生省は、
九州大学や佐賀の中原療養所など強制堕胎施設を設けていた。

敗戦、そして、その後の混乱が必至であったにも関わらず、
国家は民間人の保護など最初から眼中になかった。

それどころか被害にあった女性を忌まわしいものでも見るように白眼視し、
文字通り水際で処理していったのだ。

嬰児の命は、厳密なまでに無辜である…それゆえ、なおさら自らが招き寄せた
敗戦の実相を眼前に厳然と突きつけられるのを回避するべく
その存在を抹殺した国家やその背後に在る共同体の無言の思惑は、
白日の元で究明されなければならなかったのではないか。

当然の成行だろうが、外からもたらされた戦争の終結は、国家にしろ民衆にしろ、
表層は塗り変えられても潜在する意識に変化はもたらされなかった。

保養所を出た後、女性たちは、生涯にわたる沈黙の封印を心に課し、
なんら変わることのなかったこの社会に戻っていかなければならなかった。

自分たちが無感覚、無抵抗に享受した植民地支配、侵略戦争の帰結が、
女性たちに具体的にどのような惨禍をもたらしたのか正視することもない社会に。

被害女性の沈黙は、戦後60年を経ても解かれていない。

村石さんは、この診療所で1人の女性に出会った。
穏やかで優しい表情のひとだったという。

ここに運ばれてきた女性たちの多くが、精神と肉体に凄絶な傷を負い、
口数も少なく虚無的なまなざしをしていたなかで、
にこやかで笑みを絶やさなかったひとの面影は、心に深い印象を残した。

この女性は、性病の治療のため、入所していた。

梅毒の3期で粘膜まで損傷し、唇も割れ、皮膚の表面から膿が出ている状態だった。
治療といってもまだ当時、抗生剤などなく、毎日、洗浄を行なうばかりだったという。

病気のため、髪は既に抜け落ち、坊主頭に布をターバンのように巻きつけていた。
入所している他の女性たちも中絶の手術後、しばらく休養すると顔もふっくらとしてきて、
看護師が髪を結ってあげたり、化粧品を貸したりすることもあったという。

しかし、どの女性に対しても本名、年齢、出身地など尋ねることはなかった。
また、聞く必要もなかった。村石さんは、このひとにも、もちろん聞いていない。
当時、20歳であった村石さんより明らかに年長に見えたという。

ただ、この女性の場合、話の端々から親に身売りされ、国内の遊郭で売*に従事後、
外地に行ったら借金も減り、賃金が高くなるという業者の甘言を信じ、大陸に渡り、
日本軍の「慰安婦」として狩り出された経歴が自ずと偲ばれたという。

談話室であや取りに興じたり、
他愛のない話をするのだが、辛い過去が表情を曇らせることなどなく、
小太りの顔は、いつもにこにこと優しく笑っていたという。

あるいは、梅毒が既に脳症にまで進行していたのかもしれない。

この世のあらゆるものから背かれ、痛めつけられてきても誰を恨むことなく、
なお優しく柔和な表情であった。

このひとは、保養所にいた時、ひょっとしたら生まれて初めて、
穏やかな誰にも苛まれることのない日々の幸福を噛みしめていたのかもしれない。

なぶりものにされず、殴られず、痛めつけられもせず
…この世で初めて取り戻した肉体の自由だったのではないだろうか。

たとえ、忌まわしい病魔に苛まれていてもその表情はもの柔らかく、
曇ることはなかったという。

2005年の暮れ、木枯らしの吹く寒い日、私は、その地を訪ねてみた。

保養所の跡地には、
今、特別養護老人ホームむさし苑、筑紫野市在宅介護支援センター、
デイサービスセンター、訪問看護ステーションの施設が集積して建っており、
1部は、済生会二日市病院の駐車場となっている。

そっとガラス越しに建物の内部に眼を遣ると高齢の男女が、
ゆっくりとした動作で機能訓練をしていた。

隣りのマンションとの境界近く、
敷地の隅の緑陰のなかに二日市保養所の関係者を顕彰して、

児島敬三氏により1981年に建立された「仁の碑」、
そして1999年3月20日に旧京城帝国大学創立705周年記念として植樹された
1本の欅の樹が残されている。

さらに数本の木立に囲まれ、敷地の奥まった位置には端正な面立ちの地蔵尊が、
おさな子をかき抱き、ひっそりと安置してある。

母子像の前に立ててあるろうそくに火を灯してみた。風があるためか、
小さな焔と共に整った母子の横顔がゆらゆらと揺れて、私の眼には映った。


戦後の日本人引き揚げ時の真実は、
語り継いでいかなければならないと思います。
繰り返しますが、
日本人と一緒に戦争していた朝鮮人は、
日本が敗戦すると知ると手のひらを返して日本人に対して、
略奪・強/姦・虐殺などあらゆる暴虐の限りをしたのです。


ソ連の裏切り・火事場度泥棒強盗殺人犯罪に絡んで
日本人引き揚げ時の朝鮮半島での悲惨な史実~朝鮮人の犯罪です。
再び、歴史さんのページからの引用です。とても勉強になります。

そもそも朝鮮は、朝鮮側からの要望もあり日本統治され、
発展し、朝鮮人の寿命が伸びた事実があります。

戦時中は、共に戦いましたが、
日本が負けた事を知るとソ連の戦争参入に便乗して日本人を虐/殺したり、
日本人女性が強/姦されたりした事は、紛れもない史実です

台湾 にいた日本人は、台湾 人と涙ながらに別れて引き揚げて来ました。
しかし、朝鮮半島からは、「命からがら」逃げて来たのです。

終戦1週間前の1945年8月8日、
ソ連が日ソ中立条約 を破って対日宣戦を布告して満州と朝鮮に侵攻して来ました。

窓も門も開け放しのまま去った
日本人の空き住宅、商店、倉庫等にアリのように人間が群がった。

家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、
あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。

町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。
ある人はトランクを担いで逃げる。

皆走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。

引揚げの惨事は北朝鮮 だけに起こったのではない。
南朝鮮(韓国 )においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。

北と南に民族性の違いはないのである。同じ朝鮮人、当然でしょう。
・・・「朝鮮戦争 の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」朱栄福著

北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。

そこで見たものは、日本人の娘が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで、韓国の保安部隊に引き渡されて、更に散散にいじめられたうえ、
虐/殺される光景であった。

朝鮮保安部隊の略奪と暴行は、残虐を極めた。

夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、
17 になる娘を父親からひったくるように連行。

娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。

皆、ソ連兵を韓国 人が案内したのだった。

部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、
金や着物や米などが取り上げられた。

一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。

城津での惨状は言語に絶した。韓国 人の男女が数十名の団体で押しかけ、
干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
あげくは婦人の「提供」を要求した。

・・・正論 2005 年 11 月号 引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐

日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮 内の日本人の移動は禁じられていた。
筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行する事になった。

昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。
料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。

市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、
牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。

牛車代は多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられて
また金を巻き上げられる。山の中腹に煙が見えた。

そこはチゲ部隊の交替地であった。

もうこの頃には、醵出する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、
わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。

稜線まできたチゲ部隊に、
「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」
と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のように
この38度線の山稜を駆け下る。

・・・生きて祖国へ5 死の三十八度線  引揚体験集編集委員会編 

文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。
しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。

元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて
暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。

ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、
家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。

その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、
「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。

私達若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、
貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。

ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、
前もって準備して掘った穴に身を潜めた。

・・・私の三十八度線突破記録  梶山緑


北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、
略奪、放火、殺人、暴行、強/姦をほしいままにし、

在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられる事になった。

白昼、妻は夫の前で犯され、
泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。
反抗したもの、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。

ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かった。
富坪の避難民3000名中、その半数が死/亡した。

一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、
日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。

在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。

やせこけた身体に乞食のようなボロ をまとい、
山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾に倒れ、
人々は南に辿り着いた。

・・・「韓国 ・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 

悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、
「畜生、ロ*ケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、
朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。

この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、
「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。

あまりの雑言にきっと目をすえると、「これでも食え!」と言いざま、
足もとの土砂をすくって、パッと味噌汁の鍋にたたきこんで逃げていった。

久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、
この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。
今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。

カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。
これらは軍需品だから没収するというのである。

これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、
その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。

避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。
明日もまた現れるであろう没収団の為、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。

その翌日、朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。

一同は一夜で変わった黒や青色の服で列を作ったが、
予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。

「今度は一切の所持金を提出しなければならない。
もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。

では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。
今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。

その命の綱を一銭残らず供出したら
――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、
無一文は死の宣告も同然である。

しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。
その夜、カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。

その朝も、恐怖の的である命令が来た。

1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、
伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。

「命令」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。

「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」
十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。

この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。

残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが…」と冷たい雨の中を去っていく
男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。

この雨中の別れが、長い長い別れとなった。
この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。

・・・「大東亜戦史 8 朝鮮編」池田佑編 富士書苑

戦後の日本人引き揚げ時の真実は、
語り継いでいかなければならないと思います。
繰り返しますが、日本人と一緒に戦争していた朝鮮人は、
日本が敗戦すると知ると手のひらを返して日本人に対して、
略奪・強/姦・虐/殺などあらゆる暴虐の限りを犯したのです。

陸海空と英霊たちが命をかけて守ろうとした家族・祖国日本ですが、
敗戦と同時に生き残った人たちも死ぬのと勝るとも劣らない苦しみ~
一瞬にして死ぬのでなく長く続く精神的・肉体的苦痛は、
まさに「生き地獄」に落とされたのです。

二度とこの様な事にならない為には、戦争をしない事は勿論ですが、
戦争を起こさせない事です。戦争は、水が低きに流れるのと同じように、
(軍事)力が弱い所に(軍事)力が作用して起こります。

明確に言えば、支那が尖閣列島に触手を伸ばせば、
日本・支那間で戦争が起こりうるのです。

そうしない為には、相手が手を出せない様に、
手を出せば大火傷をする・唯では済まないような準備する事しかありません。

やくざは、警察力相手に喧嘩はしません。強い相手には喧嘩は仕掛けないのと同じです。

支那も米国 には手を出しません。
日本がこのまま何もせずにいれば支那は確実に尖閣列島に手を出します。

そうしない為には、日本は、
「支那に手を出させない様に」軍備力を充実させる事を早急に・確実に実施すべきです。



麻酔なしの中絶手術

特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、
今年5月14日に行われた「水子供養祭」(福岡県筑紫野市で)

◆恨みと怒りの声、手術室に響く

引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、
数日間の休養の後、手術室に通された。

麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。
医師が、長いはさみのような器具を体内に挿/入して胎児をつかみ出す。

「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。
看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。

ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて
激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」??。

手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。

おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。

「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、
母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。

幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。
陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。

食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、
声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。

白い肌に赤い髪、長い指??。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。
医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。

食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。
「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。

分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、
膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。

村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、
もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。

死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった
吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。
手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。

手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。

会話もなく、横になっているだけ。
大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、
ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。

女性たちは1週間ほどで退院していった。
村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。
中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400?500人にのぼると見られる。

1947年7月に設立された済生会二日市病院は、
二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。

設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、
保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。

島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。

一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、
「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。

二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、
水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。

今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、
当時を思い出しながら、むせび泣いた。

「私はこの手で子供の首を絞めたんです。
60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」




二日市保養所、

日本人は絶対に忘れはいけません。

そして朝鮮人から受けた暴行や強/姦を
絶対に忘れてはいけません。








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