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蒙古襲来の主力は朝鮮族(高麗)

※転載元http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-981.html

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前回モンゴル帝国に踏み込んでしまった以上、
日本への蒙古大襲来について検証せざるを得なくなりました。
この蒙古襲来という歴史上日本最大の危機はわずか740年前の出来事です。

13世紀の文明世界の大部分を征服したモンゴルは、
極東の小国日本をも支配せんものと使者を送ってきた。
その頃、鎌倉幕府は、北条時宗が執権を握っていたが、
彼はこの書状の内容を知ると、怒りのあまりこれを破り捨てました。
その時彼は若干18歳でした。

日本側の対応に激怒したフビライは、
モンゴル軍の恐れを知らない小生意気な小国を殲滅しようと
属国高麗に対して、直ちに1千隻の軍船を造るように命令した。

多くの労働者と大量の食料を提供しなければならなくなった高麗の国内は
大混乱に陥った。
結果山はハゲ山になり、何十万という数えきれない餓死者をだした。
その上彼らはその船にのって蒙古の兵士として海を渡らねばならなかった。
まさに朝鮮史とは惨めで悲惨そのものです。

1274年10月(文永11年)モンゴル軍は突如対馬に来襲、
続いて壱岐島に上陸した。
対馬の守護代の宗助国は80余騎を率いて応戦したが、
モングル軍は既に千余りの兵が上陸しており、勝敗は歴然としていた。

壱岐では守護代平影隆が100余騎を率いて応戦したが
400余りのモンゴル兵に粉砕された。
対馬・壱岐に上陸したモンゴル軍は男女子供の区別なく
極めて残酷な殺りくを繰り返し、耳や鼻をそぎ落とし、
苦しみもがく様子を楽しんだと「勝本町史」に記されています。

モンゴル軍に捕らえられた住民は生きながらにして、
手に穴を開けられて数珠つなぎにされ、船べりに吊るされ、
住民は生きたままモンゴル軍の矢面にたたされた。

しかし壱岐島、対馬の人たちは、他国と同じように命乞いなどせず、
無抵抗で殺され凌辱されたわけでもはなく、
女も男も勇敢に立ち向かって玉砕しました。
宋の遺臣・鄭思肖の「心史大義」に「倭人、狼にして死を恐れず、
倭婦、甚だ烈にして犯すべからず」と書いていることで実証できます。

また「東方見聞録」にはモンゴル軍の占領した城は
壱岐の城唯一つだけであった、
この唯一の守兵は最後まで降参しなかったので
土地の全人民を殺した、と記述されています。

そしてついにモンゴルの大艦隊は博多湾に姿をあらわした。
その兵力は3万5千、戦闘は激戦で一騎打ちが得意な日本の武士は
たちまち苦戦におちいった。
日本側の死傷者は計りしれず、
わずか一日足らずで太宰府あたりまで後退せねばならなかった。

モンゴル軍と言ってもその主力は高麗軍8千人と南宋軍1万人と、
契丹人、渤海人等の混成軍5千、
他に梢工・引海・水手が7千人で
残りは各部隊の指揮をとるモンゴル人です。
モンゴル軍の主力部隊は高麗軍で、
彼らは常に前線で真っ先に戦いを強いられていた。

日本に残されている「蒙古襲来絵詞」を見ると
襲来した兵士の武具はモンゴル軍そのもので、
高麗軍の武具ではないために後年、全てモンゴル人と勘違いしてしまった。

当時、高麗はフビライの女をめとった忠烈王が王位についていた。
フビライの凶暴さを知り抜いていた忠烈王は
元の忠実な属国になる態度を示して、
強制もされないのに自ら辮髪にして胡服をまとい、
宮廷の儀礼や用語もモンゴル風に変えていました。

常に最前線で戦わされていた高麗軍は、
小馬鹿にしていた日本軍の死をも恐れない反撃に、
前面の高麗軍が次第に崩れはじめ、
しだいに後方の宋軍も元軍もかなり損害を受け、
多くの戦死、負傷者を出した。
そのために全軍は夜戦での不利を察して、
全員博多湾に浮かぶ軍船に引き上げた。

「幸運にもその夜半暴風雨がにわかに起こり、
博多湾に浮かんでいたモンゴル軍の大船団は損壊し沈没した。
残った船はすっかり戦意を失いほうほうの体で朝鮮に逃げ帰った」
とほとんどの本に記述されていますが、少し疑問が残ります。

この夜の暴風雨を日本の歴史では「神風」として
戦勝の主因にあげっていますが、
この日は太陽暦によると11月26日頃となり、
台風の時季はとっくに過ぎていて、台風級の暴風雨があるとは考えられない。
「元史」によれば、台風雨の記述はなくその敗因を
「官軍整わず、また矢尽き」と書かれています。

台風ほどの強力なものではないが風雨があったことは事実のようです。
しかしその風雨が蒙古軍の艦隊のほとんどを沈めてしまったとは、
少し無理があるように思えます。

元軍は戦いを常に有利に進め、博多まで攻めこみながら、
なにもわざわざ夜討ちを恐れて、全軍が全軍船に一旦引き上げる必要などないはずです。
彼らも日本軍の死をも恐れない戦闘能力の迫力に、脅威を感じた結果であり、
被害も相当受けていたはずです。

ある本によれば「日本はモンゴル軍の強さと凶暴さを知らないゆえに
『蒙古国書』を無視することが出来た」と記述されていますが、
当時、日本では南宋とは貿易が盛んで、
多くの国がモンゴル軍によって蹂躙され征服されていた事実を承知していました。

日本の商人は幕府の命を受けて、
モンゴルの情報を積極的に収集していました。
情報により、モンゴルの日本侵攻もありうる、
現に高麗は既にモンゴルの侵攻によって属国化され、
モンゴル軍の蹂躙で、田畑は荒廃し、
人民は疲弊の極に達していた情報も入っていました。

結局モンゴル軍の一回目の日本攻撃は、
対馬・壱岐島、九州の太宰府周辺を席巻しただけで終わってしまいました。
(1274年文永の役)







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