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蒙古襲来の最大の被害者は朝鮮族(高麗)

※転載元http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-982.html

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韓国人はなぜこれほどひねくれて、根性が汚い民族なのかを解き明かすべく
韓国の歴史をたどってきました。

前回は「元」の支配下に置かれた高麗について検証した結果、
必然的に蒙古襲来について記述しなければならなくなりました。
前回は蒙古軍の1回目の日本攻撃「文永の役」について述べました。
今回は2度目の攻撃である「弘安の役」について検証してみます。

1回目の日本攻撃で蒙古軍は日本武士の死を恐れず突進してくる迫力に
脅威を感じていました。
とくに常に前線で戦うことを強要されていた高麗軍は
戦闘状態に入って初めて日本軍が並々ならぬ難敵であることを知ったのです。

フビライにとって日本は東方海上に浮かぶ小国であり、
ちょっと威嚇すれば、直ぐに平伏するにちがいないと軽く考えていました。
もちろん朝鮮族(高麗)も同じように考えていました。

蒙古の忠実な属国になっていた高麗の忠烈王は
「元」をバックにして日本に脅しをかければ日本は恐怖で直ぐになびき、
その果実の一部分だけでも手に入れることが出来ると考えていました。

そのころ高麗は30年以上にわたって蒙古軍の蹂躙に悩まされ、
山野は荒廃し、人民は疲弊の極にありました。
だからフビライを焚き付けて日本に目を向けさすことを考えたのです。

そこでフビライは高麗の進言により、
日本を服属させるために元の使者に国書を持って行かせました。
日本は返事を持たせぬままに使者を追い返しました。
日本側の対応に激怒したフビライは
直ちに1千隻の軍船を造るように高麗に命令をだしました。

つまり高麗の忠烈王の思惑は完全に外れ、
かえって苦労を背負い込むことになってしまった。
高麗にとっては、その代償はあまりにも大きなものでした。

しかし前線の高麗軍は対馬・壱岐への侵攻の際、将兵、民衆の区別なく
残虐の限りを尽くしたと「勝本町史」に記述されています。

日本人は、このような高麗軍(朝鮮族)の人間とは思えない残虐な行為に
激しい敵愾心を燃やし、いよいよ戦闘意欲をかきたてられた。
結果として1回目の蒙古来襲の進撃を
赤坂の線で食い止めることが出来たと書かれています。

蒙古軍にとって日本攻撃の敗北は初めての屈辱でした。
フビライは直ちに再攻撃を決意し、再度使者を送った。決
戦の意を固めていた時宗は使わされた使者を斬首しました。

こうした行為は蒙古にとって最大の侮辱でした。
蒙古は当時の世界の大部分を残忍な方法で征服した、
負け知らずの恐るべき民族に日本は最大の侮辱をあたえたのです。

時宗も多くの日本人も知るよしもなかったろうが、
折しもその時、司令官ジュチ率いるモンゴル軍は、
はるか西方、ポーランドにまで侵入して、
勇猛で知られたヨーロッパ騎士団の連合軍4万を一瞬にして打ち負かし、
一人残らず皆殺しにしていたのです。

文永の役で一番被害を受けたのは高麗でした。
しかし高麗には、またもや千隻の船を直ちに建造するように命令が出されました。
朝鮮人は日夜奴隷のように働かされ、
働けなくなったものは情け容赦なく殺されました。

高麗の忠烈王はフビライに高麗の窮状訴えました。
「すでに民は木の実・草の葉を採りて食し、
民の苦しみはこの時よりはなはだしきはなし」
高麗の血を吐くような訴えにもフビライは全く聞く耳を持ちませんでした。

1281年5月(弘安4年)機は熟したと見たフビライは、
まず朝鮮半島の東路軍に出撃を命じ、
4万の兵を載せた大艦隊は九州目指して出陣した。
それと呼応するように中国南部の海岸でも
蒙古と南宋の10万の兵士(江南軍)が
3千5百隻という途方もない数の軍船に乗り出陣した。

一方、これを迎え討つ日本軍は
上陸が予想される九州北部に4万人の武士が
頑強な石築地の後方に布陣していた。
この石築地は基底部3メートル、上面2メートル、
高さ3メートルほどの台形状に石を積み上げたもので、
蒙古軍攻撃を予想して、延々と20キロにわたって構築されていました。

東路軍は壱岐周辺で江南軍と合流するために10日間ほど待ったが
一向に現れないために業を煮やして
江南軍をまたずに博多に向かった。
6月6日、東路軍は博多湾に来襲したが
堅固な防塁を見て直ぐに上陸するのを見合わせ湾口に碇泊した。

蒙古の大艦隊が現れるや、日本の武士は直ちに攻撃を開始、
日本側は、前回の戦闘から得た教訓を十分に活かして、
海上で凄まじい戦闘が繰り広げられた。

6日の夜、小舟を仕立てて敵船へ夜襲を試みた。
日本軍は敵の不意をついて、敵船に乗り移り、
さんざん暴れ回り数百人の敵を斬り殺し、船に火をかけて引き上げました。

闇の海上より不意に現れる日本の船は、まさに神出鬼没で、
突然と乗り込んで斬りかかってくる武士に、
さすがの蒙古兵も恐怖で為す術がなく、
そこで元軍は各船を鎖でつなぎあわせて日本軍の攻撃を防ぎました。

8日には元軍は志賀島に通ずる海の中道から陸路攻撃が続行されたが、
豊後の守護大名大友氏が大将になって元軍に猛攻を加えた。
猛攻に圧された元軍は全軍船に避難しました。

一方蒙古軍の主力である江南軍は東路軍と合流する予定が
1ヶ月近く遅れていた。
日本軍の凄まじい防戦にあった東路軍は、
ついに九州の海岸線より中には侵入することは出来なかった。
そこで一旦引いて、後続の江南軍を待つことにしました。







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