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朝鮮人の戦前戦後(「ねずさんのひとりごと」より転載)

※転載元http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2511.html

20150111152658ffe.jpg

在日韓国人の皆さんは、自分たちは戦前、日本政府によって
無理やり強制連行されてきた被害者であるといいます。
そうであるなら、おかしなことがあります。
北朝鮮に無理やり拉致された日本人について、日本に住む日本人は、
拉致被害者の一日もはやい帰還を、みんなが願っています。
それが民族としての普通の国民感情です。
米軍でも、兵士が敵国に捕虜になれば、命がけでその奪還に動きます。
それが世界の「あたりまえ」の人の感覚です。

ところが韓国人は、日本にいる在日韓国人のことを、「僑胞」と読んで、
頭から軽蔑し、韓国帰還さえも露骨に拒否します。
韓国の歴代の大統領からして、
「私は僑胞の連中を信用などしていない。」
「僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。」
などと発言しています。
これはきわめて不思議なことです。
自国の国民が「拉致」されたというのなら、
その国の大統領は拉致被害者の帰還を促進することが、
国民感情への答えになるはずだからです。

要するに、在日韓国人の発言に、嘘があるのです。
彼らは戦前の法律である国家総動員法によって、
多くの朝鮮の方々が連れてこられたと主張します。

事実、多くの労働者が、戦前の日本で働いていました。

これには2つの種類があります。
ひとつは企業の採用、
もうひとつが国家総動員法を根拠にした国民徴用令です。


これがひどかった。。。。


日本は、支那事変から続く大東亜戦争で、
日本人の適齢期の若者たちが戦地に行っていました。
そうなると、会社などにおいても、若手の労働力が完全に不足します。
当時は、炭鉱労働や造船、建設など、さまざまな産業が
工業用ロボットではなくて、人海戦術的工法で行われていた時代ですから
労働力の不足は、そのまま生産力の低下につながります。

戦争は、大量の物資の補給を必要とします。
ですから生産量を一定に保つため、
当時、日本であった朝鮮半島から、大量の労働者を、日本国内に引き入れました。

注意しなければならないのは、この当時、朝鮮半島は日本であり、
朝鮮半島にいた人たちは日本人だったということです。
ただし、日本語ではなく朝鮮語(これも日本語のひとつの方言と理解されていました)を話す、
もとから半島にいた人たちを、
日本人労働者に代わる新たな労働力として、大量に日本に招いたのです。

このときの条件は、たいていのどこの企業も
1 日本への渡航費用全額会社負担
2 支度金として給料1ヶ月分前払い
(日本と半島では物価の違いがありましたから、現地感覚ですと約5ヶ月分の給料)
3 給料は日本人と同じ+外地手当(ほぼ給料同額)付
(つまり日本人の給料のおおむね倍額支給)
4 日本での生活は、
(1) 社宅完備
(2) 就業中は3食まかない付き
(3) 帰省費全額支給
(4) 各種資格取得制度有り
というものでした。

これは何も朝鮮人だけを特別待遇したということではなくて、
就職が売り手(優位)市場になっていた当時の社会環境と、
日本企業が遠隔地で求人をするときには、
いまでもあたりまえのように行っていることにすぎません。
ただ、当時の朝鮮人にしてみれば、憧れの日本で働くことができ、
しかも3食まかない付き、給料は半島内で就職するのと比べたら10倍近い収入、
しかも前払い支度金付なのです。
むしろ、日本で働くことを望む若者たちが多かったことは、
すぐにご理解いただけることです。


ところが、炭鉱などでもそうだったのですが、
そうやって破格ともいえる好待遇で迎えた朝鮮人労働者が、働かない。

文句ばかり言うのです。

それも普通の日本人なら、別にごくあたりまえと考えることでも、
彼らにとってはあたりまえにならない。

たとえば、いまではセメントの袋というのは、1袋25キロですが、当時は倍の50キロでした。
これを運ぶ。
彼らは日本人より体格が良いですから、運ぶことは運びます。
そこまでは良いのですが、袋ですから乱暴に扱えば袋が破けます。
ですから、あたりまえのことだけれど、袋は丁寧に扱わなければならない。
ところがこれができないのです。
何度言っても、乱暴に扱う。
重たいから、仕方がないという。
けれど、彼らよりもはるかに体の小さな日本人は、
ごくあたりまえに重くても丁寧に扱っているのです。
袋が破れれば、中身がこぼれ、作業効率が落ちます。
袋は丁寧に積み上げれば、あとから運ぶのも容易ですが、
乱暴にほかし投げれば、次に袋を移動するときに、さらに袋が破けて中身がこぼれます。

これはほんの一例ですけれど、どんな作業でも、どんな仕事でもそうですけれど、
成果は巨大なものであっても、
れを行うためのひとつひとつの作業は、細かなことの積み重ねです。
その細かなことを丁寧にひとつずつ行うから、結果として良い成果が得られます。
あたりまえのことなのだけれど、そういうことが、彼らにはわからない。

民度が高く、
「1を聞いたら10わかる」
という察する文化の日本人だから、
高品質な製品が作れるのです。
「10を聞いても1しかしない」
という連中では、まともな仕事はできません。


戦後の日本、とくに最近は日本もそれに近くなっていると言われていますが、
さらに
「1を言ったら10の文句が返ってくる」
「10を聞いたら10の文句が返ってくるだけで、仕事は1もできない」
というのでは、
まともな付加価値など生まれるはずもありません。
支那や韓国でいま日本企業が苦労しているのが、これです。

ですから戦時中、朝鮮人労働者を使う工場や炭鉱や建設現場等では、本当に苦労させられました。
日本人労働者と同じ条件どころか、会社の経理の帳面上は、倍の人件費がかかっているのです。
それでいて、成果が半分です。
ホント、かんべんして欲しい、というのが実情でした。

とにかく、直属上司の言うことを聞かない。
すぐに反抗する。
そのくせ仲間たちで結束し、ひとつ上の上司、つまり毎日顔をあわせるわけではない、
いつもは現場にいない上司の前では、極端に良い子になる。
まるでまじめに仕事を遂行しようとしている日本人の直属上司が、
とんでもないでたらめな人物であるかのような風評を垂れ流す。
そうして直属上司を追い払い、自分たちの仲間内から、現場の監督を出す。
ここまで騙されると、もう作業はデタラメのオンパレードです。

彼らは、
「自分たちは誠実に作業をしているのに、
日本人の上司に不当な要求をされ、乱暴にに叱られた」
と主張します。
けれど、まともな作業をしていないから叱られるのです。
日本人の半分しか仕事をしないでいて、それでいて待遇は倍。
文句も倍。
とにかく価値観が違うとか、人間の質が違うとかしか言いようがない。
根本的に、要するに人種が違うのです。


ですから戦争が終わって、外地にいた日本人の労働力が本土に帰還したとき、
企業はこぞって日本人を優先して採用しました。
もともと期間契約で雇っていたのです。
ちゃんと働く日本人の作業員が戻ってくれば、働きの悪いものは切られる。
あたりまえのことです。
これが戦前に日本国内で企業が採用した朝鮮人労働者たちです。
この多くは、終戦後、日本に残りました。
仕事はクビになりました。
だからヤクザになりました。
戦勝国民を名乗ったのです。

もうひとつ、軍属として国民徴用令によって、国や軍が採用した朝鮮人もいました。
彼らは、これを強制連行といいますが、とんでもないはなしです。
日本は戦争中だったのです。
日本人の若者は戦地の最前線で次々と死んでいます。
朝鮮人の多くは、軍属ですから、日本が戦争に負けてなければ、まず死んでいない。
そもそもその役割(外地の駐屯地にあって食料補給のための農作業をしたり、
穴掘りをしたり)は、日本人は、小年見習い兵がやっていたことです。
大のおとなが、少年と同じことをするわけです。
しかも、朝鮮人徴用は、昭和19年から、それも
「同じ日本人なのに、どうして我々を外地に派遣してくれないのだ」と
いう半島内部の声に押されて、やむなく徴用しています。
そのどこがどう「強制使役」なのか、世界の七不思議です。
しかも、国民徴用令によって、徴用した朝鮮人は、戦争が終わったあと、
どうしても日本に残りたいと行った245人を除き、全員、朝鮮半島に返しています。

ところがこのとき、通常の民間航路は、終戦直後のためにありません。
ですから日本政府は、日本政府の責任として、帰郷事業を開始しました。

その過程で発生した有名な事件が「浮島丸事件」です。

この事件は、終戦直後の昭和20年8月24日、
京都府舞鶴港で日本海軍の輸送艦「浮島丸」が米軍の設置した機雷に接触して沈没し、
乗員乗客ら500名以上が死亡したという事件です。
この輸送艦の乗客は全員、朝鮮人でした。

なぜなら日本政府は8月21日の次官級会議で、
「日本の為に協力してくれた朝鮮人達の帰郷方針」を決定し、
22日には専門委員会を発足させ、24日には、
さっそくそのための帰還船として「浮島丸」が日本を出港したのです。

まだ戦闘終結直後です。
このため日本近海には、米軍の敷設した機雷が依然として海上を漂っていました。
そして、それに触雷することで船は大爆発を起こし、あっという間に沈没してしまったのです。

そして、この事件から考察できる史実は、
「日本政府は朝鮮人の方々を帰郷させていた」
という事実です。


日本政府は、朝鮮半島から来ていただいていた朝鮮人の方々を、
じつは、戦争が終わると全員帰郷できるよう、
旅費やその他全ての経費を政府が負担した上で、責任をもって送り出していたのです。

帰還するかしないかは、朝鮮人自身の判断によりました。
故郷に帰りたい者は帰郷できるし、
既に日本で事業に成功して財産を蓄え或いは家族をつくった人達は、
自分の意志で日本にとどまることもできました。

明治40年の日韓併合条約締結以後、
日本の内務省によって朝鮮人の日本移住が許可され、
昭和5年には298,091人の朝鮮人が移住してきています。
それが昭和10年には、62万人です。
さらに昭和14年に国民徴用令がだされると、
朝鮮半島から日本に就業のためにやってくる人は激増しました。
戦時中は、上に述べました通り、日本の大企業が、雇用不足を補うために、
大規模に朝鮮人労働者を募りましたから、その数は、さらに激増していますう。

ところが、この帰還事業によって、日本に残留を望み、
帰還を拒否したものは、最終的にたったの245名でした。
この頃の日本は、まさに焼け野原であり、
就職どころではなかったし、仕事自体もなかったのです。
ですから労働して稼ぎを得るために本土にやってきていた朝鮮人たちは、
こぞって半島への帰還を望んだし、日本政府も、無償でそれをフォローしたのです。

日本にいても仕事はない。
当然、収入の見込みもない。
故郷に帰る費用は、全額日本政府が負担してくれる。
終戦時点で日本にいた朝鮮人たちにとって、
まさにこれは願ったりかなったりだったわけです。
200万人近くいた朝鮮人労働者たちが、この帰還事業によってこぞって半島に帰り、
結果、245名しか日本に残らなかったのも、当然といえば当然のことです。

ところが、戦争が終わって5年後、昭和25年には、朝鮮戦争が始まるわけです。

朝鮮戦争は、いきなり北朝鮮が38度線を超えて
韓国に攻め込んでくることによって始まった戦争ですけれど、
このとき、ソウルにいた李承晩韓国初代大統領を筆頭とした韓国首脳陣は、
北に押されて半島内を南へ、南へと逃げました。
そして、信じられないことに、彼らは逃げながら、
そこにいる朝鮮の民衆を片端から虐殺して行ったのです。
つまり玉突きです。
朝鮮半島は、北から北朝鮮の軍隊が南下する。
それに合わせて韓国政府首脳陣が半島を南下する。
その韓国政府の首脳陣による虐殺を畏れた韓国人が、さらに南下する。

そしてついに韓国政府が朝鮮半島南端の釜山にまで追い詰められたとき、
韓国の民衆の多くは、まさにボートピープルとなって大挙して日本本土に上陸してきたのです。


すでにそれ以前に、日本に難民として来ている人たちがいました。
彼らは、日本政府の帰還事業によっていったん帰国したけれど、
半島に仕事がなく、また日本に舞い戻った者、外地に朝鮮人軍属として派遣されていて、
外地からの機関事業によって日本に舞い戻った者などがいました。
そして彼らが、行ったのが、日本人からの略奪と日本人への暴行、
そして日本人から奪った各種財物の闇市での販売です。

浅草、上野あたりには、闇市が並びましたが、ここでは肉類がいつも豊富に売られていました。
朝鮮人たちが、夜の間に隅田川から江戸川をさかのぼって、
上流にある畜産農家が飼っている牛や豚を、勝手に殺して船で持ち去るのです。
そしてこれを闇市で、牛鍋、豚鍋として売る。
元手がタダです。
ですからボロ儲けです。

あるいは、よくあったのがデンスケ賭博です。
インチキ賭博なのですが、数人がかりでおとなしそうな日本人を囲み、
無理やり席に座らせて博打をさせ、身ぐるみをはいでしまう。
自分たちは、戦勝民族だ、三国人だと主張して、まさにやりたい放題をやっていたのです。

そしてそうやって財をなした親戚を頼って、朝鮮戦争のときに、日本に大量の朝鮮人がやってきました。
半島にいれば、殺されるだけです。
日本に来れば、戦勝民族として大きな顔ができ、しかもガッポリ稼げる。
こうして集まってきた人たちが、たとえば東京ですと下町の河川敷などにドヤ街を形成しました。
そこはいま、特定宗教団体の大規模票田になっています。

尚、国民徴用令は大東亜戦争開戦前の昭和14(1939)年に施行されていますが、
朝鮮半島での施行は、戦争末期の昭和19(1944)年です。
当時の状況は、日本人ならば主婦や学生までが総動員態勢で工業生産に従事していました。

当時は同じ日本国民と認識された朝鮮人だけが、
何もせずに遊んでいなけれはならないという理由はありません。
むしろ、その方が差別だということで、昭和19年から、彼らも国民徴用令の対象としたのですが、
なぜ、他のん本人が昭和14年からなのに、朝鮮半島人だけが昭和19年だったのかということに、
むしろ問題の本質があります。

上に述べた通り、すでに企業などにおいて、
半島からの労働力確保は先行して行われていたのですけれど、
あまりにも、彼らは「使いものにならなかった」のです。
そのことを、当時の日本人はみんな知っていたから、
朝鮮半島の人たちは徴用令から外したのです。

ところが、これに対して朝鮮人たちは、文句を言いました。
自分たちだけが国民徴用の対象外なのは、差別だ、というのです。
一方で、昭和19年になると、
若者たちは大学生まで戦地に駆り出されていましたから、本当に日本国内に労働力がない。
そんな財界の事情も後押しして、朝鮮人は昭和19年から徴用令の対象になっています。

ちなみに、戦後の在日韓国人の方の戸籍は、大半が役所に存在しないか、
あるいは男が女だったり、兄弟が夫婦だったりと間違った登録がされています。
理由は、朝鮮戦争当時に密入国してきた為、行方不明人として扱われた結果です。

差別とは、「不当な条件によって不当な扱いをする行為」です。
人種・門地・性別といった、本人の意思とは全く関係のない情報によって、
その者を不当に扱うことが差別です。
それは良くないこと、と考えたのは、戦前の日本も戦後の日本も同じです。
そしてこのことは、「機会の均等」を実現することです。

けれど、機会は均等であっても、結果は不均等になります。
働きが悪ければ、当然、待遇も悪くなる。
朝鮮の人たちが「差別だ」と言っているのは、この結果の不均等のことです。
戦前も戦後も、機会は、均等に与えていたのです。
そして、ちゃんとした仕事をしなければ、それなりの処遇になることは、
戦前戦後、あるいは洋の東西を問わず、世界中、あたりまえのことです。

「桜田門事件」という事件があります。
幕末の桜田門外の変ではありません。「桜田門事件」です。昭和7年のことです。
朝鮮人テロリストの李奉昌が、爆弾を昭和天皇へめがけて投げつけ、暗殺未遂を起こしたのです。
昭和天皇の暗殺は幸いなことに失敗しましたが、警備をしていた人達に重傷を負わせました。
しかし、昭和天皇はこれを李奉昌個人の犯罪とし、
朝鮮の人民にその責任を負わせることをしませんでした。

その10年ほど前に起きた第一次世界大戦は、
セルビア人の青年がオーストリア皇太子を殺害したことによって発生しました。
そしてこの大戦では、両軍合わせて、3,869万人の死者、戦傷者、行方不明者が出ています。
皇族に障害を負わせるということは、これだけの厄災をもたらす大事件なのです。

ところが日本では、朝鮮人の李奉昌ひとりの逮捕だけで事態を沈静化させています。
どれだけの恩恵を、わたしたち日本人も、朝鮮人たちも受けているでしょうか。
約4千万人といえば、当時の半島の人たちが皆殺しになってもおかしくない規模なのです。

また、同じ昭和7年4月29日の天皇誕生日には、
朝鮮人テロリストの尹奉吉によって、爆弾殺傷事件が起きています。
天皇誕生日の記念祝典に参加していた日本人を狙ったのです。
このテロで、白川義則上海派遣軍司令官と河端貞次居留民団長が殺害され、
重光葵、植田謙吉、野村吉三郎らが重傷を負い、多くの日本人が殺傷されました。
ちなみに、この爆発のとき、重光葵氏は、片足を失う大怪我をしていますが、
それはちょうど、国歌斉唱のときでした。
重光外相らは、尹奉吉の襲撃を知りながら、
国歌斉唱中であるということで直立不動の姿勢を崩さず、
結果、大怪我をされています。白河上海派遣軍司令らも、
やはり姿勢を崩さず、結果、お亡くなりになっています。

また戦後には、昭和21(1946)年に、約2000人の在日朝鮮人が
「戦勝国民」の権利を謳って首相官邸に乱入し、警官隊や米軍憲兵隊と戦闘を行いました。
「首相官邸暴動事件」です。

昭和23(1948)年には、同じく「戦勝国民」の地位に酔った朝鮮人3万人が
一斉蜂起して、様々な破壊行動を行い、
米軍憲兵隊(MP:ミリタリーポリス)の指揮下で鎮圧され、約1000人の逮捕者をだしました。
また大阪と神戸では府県庁を襲撃して知事や役人に暴力を行った上で監禁しました。
米軍のMPは緊急事態命令としこれを取り締まり、累計2000名近い朝鮮人を逮捕しています。

昭和26(1951)年、滋賀県で「日野事件」が勃発しました。
朝鮮戦争の戦禍から逃亡してきた朝鮮人50名が武装集団となり、警察を襲撃したのです。

昭和32(1952)年の「吹田事件」では、
朝鮮戦争の開戦をお祝いしていた「在日朝鮮統一戦線」の学生達およそ1100名が
「革命思想」をもと興奮し、警察や街の工場施設を襲撃した上で拳銃を奪って逃走しました。
この事件では朝鮮人113名が逮捕されています。

昭和34(1954)年に起きた第二神戸事件では900名の在日朝鮮人が
区役所や税務署を襲撃して破壊し、警官隊と戦闘を繰り広げ、188名の逮捕者をだしています。

このようにして数々の犯罪を繰り返し、
米国の占領中に発生した朝鮮人犯罪を米軍が統計したところ、
日本に進駐していた米軍が昭和22(1947)年から昭和25(1950)年までの
わずか3年間を集計した朝鮮人犯罪件数は、以下のとおりです。

殺人・強盗 4656件
レイプ    224件
放火      57件
傷害   17,552件
窃盗 44,494件

集団での蜂起以外にも、朝鮮人個人の犯罪を朝鮮人全体が賛美した例も少なくありません。

昭和33(1958)年8月20日には、東京都江戸川区の進学高校、
小松川高校に通っていた太田芳江さんが何者かによって強姦され殺された事件がありました。

犯人は犯行後に遺体から遺品を盗り、その遺品を送りつけて
遺族の悲しみを煽ることで楽しみ、また警察へ対しては自分の犯行を楽しそうに語る電話をかけました。
この様子は全国的にラジオで報道され、犯人の残虐性に多くの日本人が恐怖しています。

後に逮捕された犯人である在日朝鮮人の李珍宇は、
逮捕後に別の女性もレイプして殺した事を自供しました。

通行中であった田中せつ子さん(当時23才)を突き飛ばして怪我をさせ、
動けなくした所でレイプし、その後殺害していたのです。
(報道に乗ったのはここまでですが、殺人に至らない暴行件数は、数十件にのぼるといわれています)

犯人の李珍宇は死刑判決を受けましたが、
犯人の母親は「息子の行いへ対して死刑は重すぎる」と主張し、控訴・上告までしています。
結果は棄却となりましたが、この上訴の過程で明らかにされたのは、
朝鮮人は人であり、日本人は人ではないのだから、
日本人に対しては、朝鮮人は何をしても許されるのだ、という主張と思想でした。
そしてこの事件では、在日朝鮮人ら数万人の減刑嘆願署名が集まりました。
これには共産主義者文化人の大岡昇平も協力しています。

注意すべき点は『一人の異常者が朝鮮人の中に存在した』という事ではなく、
「朝鮮人が全体として一人の異常者を擁護し、同調してきた」という事実です。
この事実をどう受け止めるかは各々、その立場によって異なると思いますが、
米国CIAにおいても、また今後の日本を考える上においても、重要な視点であろうと思います。

「差別」と「警戒」は異なります。
大勢いる朝鮮人の中に、一部だけ、上述のような異常者がいるということではないのです。
そうではなくて、多くの朝鮮人が一部の犯罪者を賞賛し、褒め、称え、
なおかつその罪を罪と思わず、教科書にまで載せて「誇り」にしているという事実を、
わたしたちは無視してはならないと思います。

最後にひとつ、これまでにも何度も紹介してきたことですが、
朝鮮・韓国人による日本人虐殺事件-『和夫一家殺害事件』を紹介します。
ものすごく残酷なので、以下は、女性の方は読まないでください。

-----------------------------------
『和夫一家殺害事件』
引用:http://bbs.jpcanada.com/log/6/2950.html


日帝時代、慶尚道地域の日本人地主であった『和夫一家』は、
日本政府の朝鮮移住政策によって、朝鮮生活を始める事になった。
普段から人情に厚かった和夫さんは、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、
村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。

貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与えてあげ、
村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。

和夫さんはとても人間への暖かい愛情を持った人であった。
また、和夫さんの家族は、周囲に孤児がいると連れて帰って面倒を見ていたが、
一人、二人と増えていき、1945年にはいつの間にか施設孤児院の規模にまで増えてしまっていた。

しかも、和夫夫婦はこの孤児達を家族のように愛し、自ら喜んでその子達の父母と名乗った。
和夫一家は日頃から朝鮮人を愛し、日本の軍国主義を批判していた。
だが、天皇の降伏宣言後、自ら育てた朝鮮人孤児達によって、むごたらしく虐殺された。


<和夫の孤児キム・ソンス君の報告>

和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、
和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、
カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。
当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。

和夫:(優しい目で)何故こんなことを、お前たち。

朝鮮人A:チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!

和夫:(わざと怒り声で)「私が何かお前たちに間違った事をしたかい? 
お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。
踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところにつめかけてきたんだ? 
私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい? 
お前たちが望むんなら、帰ってやろう

朝鮮人A:意味深長な目配せをBに送る。
(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)

朝鮮人B:死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!

次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、
それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。
和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。
それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。
そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた”。
彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。
朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、
それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。

和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた。
普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、
両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。
当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。
その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、
誰一人見向きもせず、知らないふりをした。

結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
「ひみこ」は小学六年生だった。

和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、
この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった』

-----------------------------------

どこかの学校で、教師による生徒へのわいせつ事件が起これば、
多くの子女を持つ親御さんは、その学校へ進学させることに躊躇します。
同様に、小学校の正門に、生徒の生首を置かれたら、日本中の小中学校が、
放課後の校門を閉ざし、不審者の排除をします。
住んでいるマンションに泥棒が入れば、そのマンションに住む多くのご家族が、不審者に対する警戒します。

たったひとりの犯罪者が出ただけで、多くの人々は、
自分や自分の子供たちが同種の事件に遭わないように「警戒」します。
あたりまえのことです。

それを「差別」だと言葉を置き換え自己を正当化する。
さらに出自の同じ人々が総体として一人の異常者を擁護し、同調する。
警戒されて当然なのではないでしょうか。

太平洋側の多くの都市は、駅前の一等地にパチンコ店があります。
戦時中、艦砲射撃や、空襲で焼け野原になったその一等地に、
半島から逃げてきた朝鮮人たちが、縄張りを張り、その土地を占拠した。

その土地の本来の所有者は、空襲ですでに死亡。
そしてその土地の所有者のご家族が、土地に戻ると、
すでに半島人がその土地を占拠している。
交渉し、立ち退きを要求すると火病を起こして抵抗する。
仲間を集めて、遺族に復讐する。
そうやって占拠した土地が、いま、駅前一等地のパチンコ店です。


多くの日本人が彼らを「警戒」するのはあたりまえのことです。

上に示した和夫一家の事件は、たまたま和夫さんが、
多くの半島孤児をひきとっていて、なかにまともな子供もいて、
それを手記に残したから、いまでもその事実が伝えられています。
しかし、和夫さんのご家族同様の被害に遭われた日本人ご家族は、数万世帯にのぼっていたのです。

それでも「警戒」されないというのなら、「警戒」しないほうがどうかしています。

日本人は、彼らの「警戒」と「差別」を履き違えた行動を、きちんと認識すべきなのではないでしょうか。






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