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朝鮮人は日本が負けたとたんに日本人に残虐非道な限りをつくした

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【米国】 『ヨーコの話』カリフォルニア州の推奨教材から除外を・・・米国韓人同胞、総力抗議[11/05]

(ソウル=聨合ニュース)歴史の真実を歪曲した「ヨーコの話」が
推奨教材から除外されるかどうかについてカリフォルニア州教育省教材採択委員会の
6日(韓国時間)決定を控え、在米同胞社会が総力を傾けて抗議している。

米州韓国日報とラジオコリアなどメディアは5日「韓人社会は
明日、サクラメントのカリフォルニア州議事堂で開かれる予定である
教育省公庁会に代表者を立会いさせて
「ヨーコの話」に対する同胞たちの立場を説明してこの本が推奨図書に不適合であり、
除外を強力に要求する方針を立てた」
と伝えた。

教材採択委員会は、この日の公聴会で
6年間使われる中学校の言語学教材を選別しようと最後に世論を収集し、
公聴会の結果によってこの本の除外の可否が最終的に決まる。

公聴会には「米がある風景」の作家であるイ・ヒェリさんとチャン・ソテク弁護士、
チェ・ミヨン北加州韓国学校聯合会会長
そして韓人学父兄と韓人会関係者など100人余りが参加する。

イさんは
「'ヨーコの話'が歴史的事実を歪曲しているという点を強調して、
教育委員たちを説得するつもり」

としながら「もうちょっと正確な本に入れ替えるように求める」と明らかにした。

チャン弁護士は、この本が除かれなければ
韓人学父兄たちと一緒に法的措置も辞さない、
という韓人社会の強硬な態度を伝達する方針で、
日本が韓半島で行った蛮行を説明すると述べた。


一方、'南加州韓人学父兄会聯合'は10月28日から去る3日まで、
わずか一週間の間に1万5千名が越える韓人たちの署名を受け、
この署名簿を公聴会に提出する計画だ。
聯合側は「ヨーコの話の代わりになる本で、
リチャード・キムの「忘れてしまった名前」、
リンダ・スー・パクの「わたしの名前がケオコだった時」、
キム・テジンの「最後のお母さん」など韓人作家の作品を勧めた。

ソース:聯合ニュース(韓国語) "'ヨーコの話'退出しなさい"..美同胞総力抗議
http://www.yonhapnews.co.kr/politics/2008/11/05/0512000000AKR20081105078500069.HTML

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金完燮『親日派のための弁明』の未翻訳部分

私は生粋の韓国人だ。
でも,韓国人というものがあまりにも情けなく,えいっと殺してしまいたいときがある。
なぜ日本の蛮行は暴くのに,自分たちの汚い利己心と低劣な鍋根性には目をつぶるのか?
日帝時代,朝鮮に移り住んだ日本人の中には,明らかに立派な人々も多かった。
ところが,和夫一家殺害事件のように,韓国人は自分たちの間違いを,
日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し,
事件を矮小化,隠蔽しようと躍起になっている。
和夫の亡骸は,釜山に大切に移葬され,毎年,日本人の墓参りが絶えない。
以下は,和夫夫婦が死んだ日,
ふだん彼から深い恩を受けていた金ソンス君が見聞きしたことを記録した証言だ。

事件当時,金ソンス君も加害者だったが,殺害行為には同調しなかったそうだ。

和夫氏は,日帝時代によく見られた,慶尚道地方の日本人地主だった。
地主とはいうものの,和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策にしたがって,
乗り気ではなかった朝鮮生活を始めたものだ。
公務員だった和夫は,政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。
そのころの日本は,一種の軍事独裁体制で,
政府の命令に従わなければすぐに売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。

当時,朝鮮にいた日本人地主のなかには,朝鮮人の小作人たちから,
法の規定以上の小作料を取り立てる,怪しからぬ人々もいたが,
ふだんから人情味の厚かった和夫は,
小作料を収穫全体の十分の一とし,村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。

自分たちの生活が困らなかったので,総督府の法令にしたがって,
やむをえず受け取らなければならない最小限の小作料だけをとったのだった。
貧しい小作人が食料がないと泣きつけば,喜んで食べるものを分けてやったし,
村で誰かの葬礼があれば,家族総出で駆けつけ,
食事の支度はもちろん,自ら慟哭して,悲しみを分かちあうこともあった。
このように,和夫は人間への温かい愛情をもった,真の人間だった。

また,和夫は近くに行き場のない孤児がいると,連れ帰って面倒を見ていたが,
その数は,一人,二人と増え,四,五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。
けれども,和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し,
自ら喜んで彼らの父,母を称した。
和夫の家族は,ふだん,このように朝鮮人を愛し,
日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。
しかし,彼らは,日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日,
自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより,凄惨に殺害されたのだ。


その日,まさに万歳の声とともに,
太極旗が波のように風になびきつつ,朝鮮人の世がやって来た。
育て,東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に,
彼の家で教育を受け,育ち,成人した精神は,
自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと,和夫君に嫉妬したのか?
彼がわが子のように年たちが,斧と鍬,スコップを手に,和夫のもとに押しかけた。
そのとき現場にいた金ソンス君は,次のように証言している。

和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを,子どもたちよ。

A:チョッパリ! 日本へ失せろ,失せちまえ。

和夫:(怒ったような声で)私が,お前たちにどんな間違いをしたというんだ。
お前たち,みなが私の息子だ。
私はこの家の家長であり,お前たちの親だ。
お前たちの祖国が解放されたことは,私もふだんから待ち望んできたことだ。
踊りでも踊りたい気分の日に,なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。
私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。
(涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。
朝鮮の息子たちよ。
私が愛を傾け,育ててきた結果は,
つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。

お前たちが望むなら,帰ってやるわ。

A:意味深長な目配せをBに送る
(財産をすっかり処分して帰ったら,おれたちはどうやって食っていくんだ?)

B:死ね,チョッパリ,シッパルノマ。

間髪入れず鍬が,和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に,
数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。
このとき,和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。
それまで黙っていたCは,和夫の妻を見て,彼女の長い髪をつかみ,
庭の奥まったところに引きずっていった。
そしてなんと13人がかりで,ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を,
強姦しはじめた。

(金ソンス君は,この期に及んで自分が止めに入ったら,自分も殺されただろうと言った)。
強姦に耐えられなかった彼女は,行為の途中で死亡し,
Dは,ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず,
内臓をひきずり出して,まき散らした。

和夫には,一人の幼い娘がいた。
ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは,放課後,家に帰ってきて,
両親の身に起こった惨状を見,気が触れてしまった。
ヒミコが何日間も慟哭する声に,近隣住民たちは眠れなかったそうだ。
その後,孤児になったヒミコは,食べ物を乞おうと,その付近をさまよったが,
朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず,知らないふりをした。
結局,彼女は9日後,村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
当時,ヒミコは小学校6年生の幼子だった。
和夫の財産は,勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り,
この事件は村人たちの沈黙の中,しだいに忘れられて行った。

この文章は,ある読者からの手紙にあったものだが,
冒頭,韓国人が反省し作成したものと書かれているものの,
「和夫君」,「和夫さん」などの日本的な呼び方が混じっており,
最後の部分に朝鮮人に対する軽蔑に満ちた文章(削除した)が含まれていたことなどを勘案すれば,
韓国語ができる日本人が書いたものではないかと思う。
いずれにせよ,この事件について聞いたことがあるという韓国人も多いことを見れば,
実際に釜山地方で発生した事件のよう
であり,
また韓国による植民地被害の主張に対する,
日本人の対抗論理をかいまみることのできる珍しい例として,
決して重みが失われない文だといえよう。

振り返って考えてみれば,日本の敗戦後朝鮮半島では,
このような殺害劇がたくさん発生しただろうと思われる。

日本の無条件降伏以後,北韓地域にはソ連軍がすばやく進駐し,
軍政を敷いたが,南韓に米軍が上陸したのは9月中旬だった。
したがって,約1カ月程度,南韓地域には無政府状態が続いた期間があった。
韓半島には,さまざまな理由で日本人とそれに加担した者たちに
恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし,
彼らは日本人を殺し,財産を強奪し,日本女性を強姦しただろうと思われる。

そして,朝鮮人たちが8月15日,日本の降伏を喜んだいちばん大きな理由は,
おそらく,日本の一部として
敗戦国の暗澹たる未来をともにするのが嫌だった
ためではなかろうか。

日本統治の最後の期間,特に大東亜戦争が始まった,最後の4年間は,
日本人はもちろん,日本の統治を受けていた地域の住民たちも,
大きな苦痛に見舞われた時期だ。
それゆえ,朝鮮人たちにとって8月15日は,
忌まわしい戦争の苦痛から脱することのできたという点で,
また日本人たちを殺し,財産を奪える機会が与えられたという点で,
少し大きい文字とても喜ばしいことだっただろう。


問題は,韓国社会において,朝鮮人によってほしいままにされたこ
のような虐殺と残酷な行為はまったく知られておらず,
また調査されたこともなく,
われわれが受けた被害だけは,繰り返し強調されているという点だ。
そして日帝統治の期間に受けたとされる被害なるものも,
事実よりずっと膨らまされているだろうことは,容易に想像がつく。


朝鮮は日本の統治を受け,未開な農業社会から短期間に資本主義工業国へ発展し,
高い生活水準を享受してきた。
しかし,日本が戦争に負けるやいなや,
素知らぬ顔で,まるで自分たちが戦勝国にでもなったかのごとく,
日本を呪詛し,彼らの財産を奪い,虐殺した行為は,
明らかに人倫に悖る犯罪行為にほかならない。
このようにして日本人をすべて追放したあと,
南韓国と北韓国の政府は,
強奪した日本人の土地と工場を「敵産」と呼び,堂々と山分けした。


もし日本が戦争で勝利したり,少なくとも領土を保全され,
休戦にでもなったなら,はたして朝鮮人たちはこのように振る舞えただろうか。
おそらく,前よりもっと自発的に日本人であることを主張しつつ,忠誠を尽くしただろう。
ところが,戦争に負け,くっついていても別にいいことがないと判断した瞬間,
彼らは態度を急変させ,日本に仇として接し始めたのだ。


1946年6月10日救療部報告書より

「満州や朝鮮からの 初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。

朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、
年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて さらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。

「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、
17才になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて 幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、
金や着物や米などが取り上げられた。
靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。
朝鮮人の男女が 数十人の団体でおしかけ、
干してある洗濯物から 赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
あげくは婦人の“提供”を要求されたという」

博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
レイプによって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。

昭和21年の春、堕胎のための専門病院設立のきっかけになる出来事があった。
医療救護に従事していた医師・田中正四は、港で引揚船から降りてきた教え子と再会した。

京城女子師範を卒業して 朝鮮北部の田舎の学校に赴任していた彼女は、
進駐してきたソ連兵に暴行されたのだ。しかも一度では済まず、相手も変わった。
兵隊同士が情報交換をしていて、部隊の移動のたびに新しい兵隊に襲われたのである。

救療部の関係者は 悩んだあげく 堕胎手術に踏み切った。

医療設備や技術の不備、そして何よりも、
当時は堕胎を禁ずる法律があったからである。
しかし手術は失敗し、娘は命を落としたのである。


「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、
「水子の譜」に収録されている。
同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、
レイプの加害者は朝鮮人が最も多く次いでソ連人、中国人、アメリカ人だという。


蔡焜燦著『台湾人と日本精神』

昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。
山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と
隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。
我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。
無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。
ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。
しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、
悔しさと無念の気持でいっぱいになり、
とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。
無性に悔しかった。
それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。
他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、
したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。
日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、
『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。
敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、
水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく
和歌山に移動するとの伝達があり、
四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。
だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、
祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、
いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。
この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、
40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。
『俺達はいったいどうなるのか… 』
『我々は“中国”へ帰るみたいだ』
『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』
がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、
日本人は復員することが決定した。
もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。
しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、
兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。
そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、
あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。
『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』
そう言い残して去っていった上官の言葉を、こ
れまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、
我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。
そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。
新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、
列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。
ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。
私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、
やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。
少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。
また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、
8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、
『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。
多勢に無勢、勝ち目はない。
こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、
連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。
若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、
次の駅で窓から降りるよう指示するなど、
この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。
ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。
あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、
肩をいからせていた朝鮮人たちが、
「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。
それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。
弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、
そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。
なんとなくいい気がしない。
とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、
そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。

終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、
三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、
小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、
時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた
銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷は臺湾人に支配され、
政府も警察も動揺し、手を拱いてゐた 戦勝國民は治外法権だったのである
だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった
服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、
其処へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。
日本人は買へなかったが。
斯うした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して
堂々と闇商賣を行ひ、派手に稼いでゐた
そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題
警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから
(流石に銃撃戦は挑まなかった模様)
當時は物不足で、賣る方は素人でも出來た
仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから
其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い
警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、
捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず
上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、
大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って
二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった
(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、
第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、
ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、
共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た
平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした)
東京東部(すなはち大東京の中心地)
北郊の荒川、古利根- 中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった
當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、
深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて行って屠殺した

牛はモウと言って泣いたので皆氣付いたが、
銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった
永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながら
ズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、
手向へば殺されるのでどうにも出來なかった
斯うして利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、
闇市で賣られた
この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ
上流で屠殺した牛を、其儘下流へ賣りに來たのだらう
斯くて南關東から、牛はゐなくなった
家畜相手ならまだしも、人間に對しても、關東以西の大都市を中心に、
日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた
川崎、濱松、大阪、神戸などが酷かった
其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、
後の首相・鳩山一郎氏に對する集團暴行・傷害事件がある
翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、
例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、
鐵道員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、
おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、
此車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、
愚図愚図するな! と追ひ立てた
其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、
と一乗客として穏やかに抗議したら、
忽ち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした

幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、
頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、
血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した
年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、
如何に不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう
直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯況や庶民に於てをや
土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった
闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊には、
空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された
今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、
皆、あの時奪った罹災者の土地だ
其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、
警察如きに何が出來よう まこと、敗戦はかなしからずや
堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、
「小戦争」は日本中に頻發した
最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、
遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った
其で流石に米軍も腹に据えかね、
日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、
關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、
不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、
街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、
人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、
漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た
此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、
「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」
と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである

だから、外國人差別用語な筈は無い
彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか
聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、
本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ
外交センスの要る役職であった
何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い
「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない
近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう
知合ひの報道人幾人かに電話して、
テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實を話して進ぜやう、と申入れたら
皆、検討させて下さい、と逃げてしまった
眞面目に報道する氣は無いのかの


★戦後に朝鮮人が起こした主な暴動
・大阿仁村事件(1945年10月22日)
・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
・富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
・長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
・富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
・坂町事件(1946年9月22日)
・新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)
・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
・尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
・阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
・評定河原事件(1948年10月11日~12日)
・宇部事件(1948年12月9日)
・益田事件(1949年1月25日)
・枝川事件(1949年4月6~13日)
・高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)
・本郷村事件(1949年6月2日~11日)
・下関事件(1949年8月20日)
・台東会館事件(1950年3月20日)
・連島町事件(1950年8月15日)
・第二神戸事件(1950年11月20~27日)
・四日市事件(1951年1月23日)
・王子事件(1951年3月7日)
・神奈川事件(1951年6月13日)
・下里村役場事件(1951年10月22日)
・福岡事件(1951年11月21日)
・東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)
・半田・一宮事件(1951年12月3日~11日)
・軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)
・日野事件(1951年12月18日)
・木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)
・姫路事件(1952年2月28日)
・八坂神社事件(1952年3月1日)
・宇治事件(1952年3月13日)
・多奈川町事件(1952年3月26日~30日)
・田川事件(1952年4月19日)
・岡山事件(1952年4月24日~5月30日)
・血のメーデー事件(1952年5月1日)
・上郡事件(1952年5月8日)
・大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
・広島地裁事件(1952年5月13日)
・高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
・奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
・万来町事件(1952年5月31日~6月5日)
・島津三条工場事件(1952年6月10日)
・醒ヶ井村事件(1952年6月13日)
・葺合・長田事件(1952年6月24日)
・吹田・枚方事件(1952年6月24日~25日)
・新宿駅事件(1952年6月25日)
・大須事件(1952年7月7日)
・舞鶴事件(1952年7月8日)
・五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)



田岡一雄山口組組長の回顧録「山口組三代目 田岡一雄自伝」より転載

一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。
飛行服の男たちだった・・・
(中略)
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、
無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。
こういった不良分子(朝鮮人)は
旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。

袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、
肩で風を切って町をのし歩いた。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげた
かれらの略奪、暴行には目にあまるものがあった。
警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、
街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。玉音放送ののち、
今まで同じ日本人として権利を享受してきた朝鮮人の態度がガラリとかわり、
敗戦の責任を日本人とともに背負うのを拒否しだし、
それを正当化するために日本人に牙をむきはじめる。
隣組み組織や防空演習等 いっしょにやってきて同じ日本人として助け合っていたのに、
この変わりように、初め祖父は「冗談だろ?」と思ったらしい。

しかし、事は悪夢以上だった。
集団で土地をロープで囲み、バラックを建てていた家族を殺害し占拠する。
白昼、商店を襲い、商品を根こそぎ奪いそれを闇市で売りさばく。
バスや列車に無銭で駅員を殴り倒し、どかどか乗り込み、網棚の荷物を外に放り投げ、
そこで高いびき。
警官狩りをして堂々と殺す等等。
祖父曰く「町は彼らの遊び場になった。日本人は逃げ惑うだけになった。」

こういった真実は現代のマスコミでは完全なタブーとなっている。
著名な駐日大使ライシャワーの「日本史」でも戦後の朝鮮人の横暴は記載されていたが、
たった1行書かれていただけなのに在日や左翼の抗議が殺到したという。


「朝鮮開化史(恒屋益服著 博文館 明治34年)」

明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、
清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。
父として明を敬っていたはずなのに
新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。
3回にわたる明征伐では朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。
満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、
盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。
しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に降り清軍に召集されると、
今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。
少し大きい文字清の将軍である龍骨大が率いた、
明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。
「韓兵ことに虐殺を極めたり。
漢民号呼して曰く、天朝、朝鮮において何の仇があろうか。
その恩に背いて、ここに至るかと…」


明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。
しかし、いざ明が弱勢になると、
朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。
日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。
万宝山事件は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争いから起こり、
朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。
満州では、朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。

http://maokapostamt.jugem.jp/


現代を生きる日本人の皆さん、
日本人が終戦を迎えたときに朝鮮人に何をやられたのか
よ~く心に刻んでください。
強い者には事大し、
衰えると手のひらを返して残酷なまでの裏切りをする、
それが朝鮮人です。
有史以来、ずっとこの繰り返しです。
決して心を許してはならない民族なのです。
そして、都合の悪いことは力で封じようと躍起になります。
自分達が悪いことをしても罪の意識が無いのです。
都合が悪いことは全て他人のせいにして、己の非は決して認めようとしません。
そんな大げさなと思うかもしれませんが、
段挨拶程度の付き合いならわかりにくいかもしれませんが、
利害が絡めば途端に民族性が露になります。
まともな人間もいますが、その人たちの身内までがまともとは限りません。
だからこそ、彼らと対峙する時は慎重でなければなりません。
もし、朝鮮民族がまともな人たちの集団であれば、
自分達がやったことを棚に上げて
一方的に日本人を悪者にはしていません。
自らの罪をきちんと認め日本人被害者にそれなりの謝罪と償いをしているはずです。
それが戦後63年経つ今でも清算されず放置されたままです。
今後も朝鮮人が変わることはないでしょう。

日本人はそろそろ朝鮮民族と決別するべきです。









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