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李承晩と朝鮮半島の歴史(転載)

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朝鮮戦争

大東亜戦争のあと、朝鮮戦争があったという事実は、多くの方がご存知のことです。
この戦争は、昭和25(1950)年6月25日~昭和28(1953)年7月27日の停戦まで戦闘行為が続きました。
いまでも、南北朝鮮の間に38度線が引かれ、韓国と北朝鮮の両国は戦争状態にありますが、
一般に「朝鮮戦争」と呼ばれるのは、戦闘が行われていた上述の期間を指すようです。

さて、その朝鮮戦争ですが、戦闘期間を通じて、韓国では軍人約42万、民間人106万が命を失いました。
そして約1千万人が一家離散の悲劇にあった。


大東亜戦争終結後、日本が軍事徴用した朝鮮人たちを国費をもって彼の国に返し、
どうしても日本に残りたいと申し出て日本に残留した朝鮮人は、わずか245人です。
そのわずか245人が、戦後65年経ったいま、日本国内に約100万人にも増殖したのは、
要するにこの朝鮮戦争が最初のきっかけです。

ひらたく言ったら、朝鮮半島で殺されそうになった朝鮮人たちが、
ボートピープルとなって大挙して日本に逃げて来たのです。

昭和25年から昭和28年にかけての日本といえば、まだまだ貧しい国でした。
ほとんどの日本人は、まさに食うや食わずの苦しい生活を余儀なくされていた。
それでも、多くの日本人は身ひとつで逃げて来た朝鮮人たちをかくまい、
衣食を与え、ときには経済的援助まで行って来た。
そのおかげで、多くの朝鮮人たちが、日本にそのまま定着して、現在に至っています。


また韓国については、戦後たびたびウォンが危機状態となり、巷に失業者があふれ、
結果として職を求めて(このとき女性は売春による荒稼ぎ目的で)日本にやってきた者も多い。
それでも昭和の間は、日本に永住していても、たとえば運転免許証などでは、
免許証の一番上の「国籍/本籍」欄に、「国籍:大韓民国」とか表示され、
だから免許証をみれば渡来人かどうかがわかった。


ですからサラ金が世に出た当時は、貸付審査に際して、
運転免許証を見て、韓国人だとわかれば、融資をお断りしていた。
それがなぜか、お国からの通達で、外国人だからと融資を断ってはイケナイとされるようになり、
挙げ句の果てが、どこでどう決まったのか、
いまでは運転免許証の「国籍/本籍」欄は、印刷上は空白とされ、
警察の保有する特殊な機械を使わないと、
一般人には外国人であるかどうかの識別はできなくされている。

実に不思議な話です。

さて、そうした戦後の朝鮮半島と日本が、どのような流れになってきたのか、すこし考えてみたいと思います。
そこには、怒りと感動の物語がある。

いま、朝鮮半島は、北と南に分断されていますが、実は大東亜戦争が終結した直後、
昭和20(1945)年9月6日に、統一朝鮮(北と南の両方がひとつの国になった朝鮮)が樹立されていたのです。
国名を、「朝鮮人民共和国」といいます。

戦前の朝鮮は、日本に併合されていましたから、南北の切り分けなんてなかったのです。
そこには朝鮮総督府があり、その総督府の機能が、そのまま朝鮮建国に結びつく筈だった。
だから朝鮮総督府には、呂運亨(ヨ・ウニョン)という立派な人がいて、
朝鮮建国準備委員会を設立し、半島統一国家の建設を企図し、
実際に「朝鮮人民共和国」が建国宣言まで行ったのです。

ところがそのまま統一朝鮮が樹立されればよかったのですが、
樹立宣言の翌日に上陸して来た米占領軍は、半島に勝手に軍政をひいてしまいます。
そして呂運亨率いる「朝鮮人民共和国」も「朝鮮建国準備委員会」も否認してしまったのです。

実はこの否認にはこれにはもうひとつの理由があります。
それが、後に韓国の初代大統領となる李承晩(イ・スンマン)です。

李承晩は明治8(1875)年生まれの朝鮮の独立運動家です。
生家は、李氏朝鮮の初代王である太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の末裔とされていますから、
要するに両班(りゃんばん、朝鮮の貴族)の家にあたります。

李氏朝鮮の時代というのは、人口でいったらほんの一握りしかいない朝鮮貴族の両班が、
民衆に対して絶対的権勢を振るった時代ですから、
彼らにしてみれば日本によって民衆に力を与えられるのは憎くて仕方がない。
日韓併合によって朝鮮半島が日本統治になると、李承晩は上海に渡り、
そこで「大韓民国臨時政府」を樹立して、勝手に初代大統領を名乗っています。
これが大正8(1919)年のことです。

さすがにことのときは、日本も怒り、憲兵隊が李承晩を逮捕した。
日本はアジアの独立、アジアの欧米による植民地支配からの脱却、
そして人種平等を目指して戦っていたのです。
人種の平等というのは、人間の平等の精神でもあります。
どんな人でも、努力をすれば、相応の地位も名誉も与えられる。
単に権威の上にあぐらをかくような存在は、否定される精神でもあります。

これに対し、李承晩が抱いていた思想は、あくまで朝鮮半島は両班のものであるという思想です。
朝鮮半島の人も富も、すべては朝鮮人の両班のものでなければならない。

これは、日本の大東亜共栄の思想とは全く異なるものです。
日本の憲兵は、李承晩に対し、理を諭し、情をもって接するのだけれど、
李承晩は火病を起こして翻意しない。
あまりのことに腹を立てた憲兵が、その李承晩に平手打ちをしたのだそうです。
このたった一回の平手打ちが、実はその後の韓国と日本の関係を決定づけた。

李承晩は、実は太宗の長男の系譜とはいっても、16代目にすぎません。
家は簡単に言ったら、没落貴族でしかない。
けれど彼にとっての誇りというのは、自分が両班である、というその一点に集約されている。
だから、人から平手打ちなんてもらったことのない李承晩は、
生涯にわたって、その平手打ちを逆恨みし続けたのです。
当時は、日本人の間では、平手打ちなんてのはあたりまえの習慣です。
平手で相手のホッペタを、ピシャリと叩くのだけれど、平手打ちというのは、
打たれた側は痛みはあっても怪我はしません。そして打った側も、手のひらが痛い。
打つ側の手の平の痛みは、打つ人の心の痛みでもあります。
その心を素直に感じることで、打たれた側も反省をする。
日本ではあたりまえの、そうした習慣が、朝鮮人の李承晩にはまったく通じなかったどころか、
彼は生涯それを個人的怨恨として逆恨みし続けたのです。

李承晩は、憲兵から釈放されたあと、渡米し、
そこで米国大統領ならびにパリ講和会議の米国代表団に宛てて、
「朝鮮半島を国際連盟の委任統治領にしてもらいたい」という請願書を提出しています。
もし、朝鮮半島が現実に「委任統治領」になっていたら、
おそらく今の韓国の発展はないことは、火を見るよりもあきらかなことと思います。

さて、終戦直後の状況に話を戻します。

一方、38度線の北側には、この頃すでにソ連が進駐をはじめていました。
こいつらが悪い奴らで、この連中にずいぶん日本人婦女が強姦され殺されたのだけれど、
彼らはそれだけではなく、10月までに「各地で自発的に生まれた」という名目の「人民委員会」を組織し、
これらを管理下に置いて、朝鮮北部を占領した。

このことには、すこし説明が必要です。
ソ連兵には、もちろん朝鮮語はわかりません。
ですからソ連が朝鮮人たちを支配するに際しては、
朝鮮語を話す者たちを、ソ連兵の手足として使う必要があった。
その手足となったのが朝鮮人の共産主義者たちで、
ソ連は彼らに旧日本軍から押収した銃器と金を与え、
自分たちが強姦したあとの日本人女性と食い物とを与えた。
飯が食えて、金がもらえて、いままで支配者側だった高貴な日本人女性を欲しいままに強姦できて、
金持ち日本人の財物も奪える。
そういうことを喜ぶ馬鹿者どもが、喜んで「人民委員会」のメンバーになったのです。

歴史は複雑に絡みます。
同じ頃、シナでは、蒋介石率いる国民党の敗退が始まっていました。
なぜいきなり敗退しはじめたかといえば、米英が、
蒋介石率いる国民党への支援を打ち切ったからです。
米英は、それまで蒋介石率いる国民党に、
日本と戦わせるための豊富な軍事物資や食糧、金銭などの支援を行ってきたのだけど、
日本との戦争が終戦となったので、彼らはもう「用済み」になったのです。
薄情なものです。

蒋介石の国民党は軍閥です。米英の軍事的経済的支援があったから人を集め得たのです。
支援物資の補給を断たれたら、もはや存続は困難です。
そこへソ連から旧日本軍の装備を無償で譲り受けた毛沢東率いる八路軍(中国共産党)が襲いかかった。
勝敗はおのずと明らかです。補給を断たれた国民党は
シナ各地で八路軍に追われ、シナは赤化が目前となっていったのです。

ソ連は、毛沢東率いる八路軍に豊富な武器や食料を与えたやり方と同じ方法で、
朝鮮半島を我が物にしようとしました。
ここで使われたのが金日成(キム・イルソン)です。

そして朝鮮半島の米国進駐軍による半島の国家基盤が定まらないうちに、
金日成は、朝鮮北部にはいって昭21(1946)年2月8日、「朝鮮臨時人民委員会」を設立したのです。

朝鮮半島に、統一朝鮮国として成立した呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる「朝鮮人民共和国」が、
わずか5日で崩壊した背景にも、李承晩がいます。
彼は、米国内でロビー活動を展開し、新たに設立された「朝鮮人民共和国」には、
ソ連に煽動された共産主義者たちが混入している。
だからそういった者たちと一緒に統一朝鮮を作ることには疑問があると主張したのです。

そして李承晩は、金日成率いる共産主義者たちを駆逐したあとに、
米国進駐軍の力で統一朝鮮を建国すれば良いとした。

ところがソ連は、そんな抵抗があるのは百も承知です。
また金日成にしても、せっかく朝鮮半島北部を武力制圧したのに、
そこから追い出されたのでは元も子もない。
とりわけ朝鮮半島の北側には、日本が建設した工業地帯がありました。
朝鮮半島の富のほとんどを北側が握っていた。そこを金日成は押さえたのです。
富があり、武力があり、ソ連の完全なバックアップ体制もある。
そんな北朝鮮を、金日成が手放すわけがない。
そして、李承晩に引きずられた米国が、半島内の共産党員に手こずっている間に、
金日成は、さっさと「朝鮮臨時人民委員会」を設立してしまったのです。

そもそも戦前の朝鮮は、日本に併合されていましたから、南北の切り分けなんてなかったのです。
そこには朝鮮総督府があり、その総督府の機能が、そのまま朝鮮建国に結びつく筈だった。

半島北部での共産国家設立の動きに対し、米国に亡命していた李承晩は、
朝鮮半島での反共産勢力による早期国家設立を米国に迫ります。
そして北朝鮮に遅れること16ヶ月、
李承晩をリーダーとする「南朝鮮過渡政府」が、昭和22(1947)年6月に誕生しました。

米国は、共産主義者と民主主義者が対立を深める朝鮮半島について、
同年11月、国際連合に半島統治問題を提起します。
北の金日成は、この動きに危機感をつのらせた。

金日成は、翌昭和23(1948)年2月8日に「朝鮮人民軍」を創設します。
そして同月26日に、北緯38度線以北に「朝鮮民主人民共和国」の成立を一方的に宣言した。

せっかく国連に話し合いを提案したのに、米国は、これを激しく非難します。
けれど非難されて黙っている金日成ではありません。
彼はこれに対抗して実力行使に出たのです。

なんと彼は、南半部への送電を全面的に停止する。
当時南半部の電力は、日本によって建設された北部のダムによる発電に頼りきっていたのです。
同時に半島南端にある済州島にいた南朝鮮労働党の共産ゲリラが、これに呼応して武装蜂起した。

李承晩は、すぐさま暴動の鎮圧に乗り出します。
済州島の共産ゲリラは、武器を持っていなかったのです。
そこへ李承晩は軍を派遣し、済州島民8万人を虐殺してしまいます。
これを、昭和23(1948)年の済州島四・三事件といいます。

実力行使によって暴動を陳圧した李承晩は、同年8月15日、「大韓民国」の成立を宣言します。

金日成はこれに対抗して翌月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」建国を宣言した。
これにより、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となったのです。

昭和25(1950)年1月12日、米国トルーマン政権下のディーン・アチソン国務長官が、次のように発言します。
~~~~~~~~~
米国が責任をもつ防衛ラインは、
フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。
それ以外の地域は責任をもたない。
~~~~~~~~~

この発言の意図は、ひとつには、あくまで米国の国防政策において
太平洋の制海権は絶対に渡さないというもの、
もうひとつ意味は、李承晩を抑え込む意図だといわれています。

李承晩は、上海で統一韓国臨時政府樹立を行い、
日本の憲兵隊に逮捕されて平手打ちを食わせられたときから、
日本に対して個人的な怨恨を持っています。

そしてかねてより、日本に対して竹島領有宣言など、報復的、敵対的発言を重ねていたのです。
そして李承晩は、あくまで朝鮮半島の統一とそのための戦争を頑強に主張していたのです。

もう戦争は終わったのです。
いまさら誰も戦争などやりたくない。
米国内の世論だって、もう戦争にはあきあきです。

だから米国政府は、李承晩にいい加減、手を焼いていた。
そして米国は、韓国の軍事力の大半を米国で請け負うことで、
韓国軍が単独で重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ごうとしていたのです。
韓国に僅かな兵力しか与えないことで、
とにかく李承晩の暴発と半島内での紛争を防ごうとしたのです。

一方、このことは、北の金日成にとっては、
南朝鮮の李承晩による北侵攻の危機を抑え込む好機を意味します。
いまなら半島全体を北のものにできると判断した金日成は、
昭和25(1950)年3月、ソ連を訪問し、スターリンに李承晩との開戦許可を求めます。

スターリンは、毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認する。
同時にソ連軍事顧問団に、南侵計画である「先制打撃計画」の立案を命じます。

スターリンの考えは、金日成の南進によって朝鮮人同士で戦わせ、
万一、金日成がしくじることがあっても、ソ連は直接には手を下さず、毛沢東に後ろ盾をさせようというものです。

同年5月、金日成は支那に毛沢東を訪ねます。
そして「北朝鮮による南半部への侵攻に際し、
中華人民共和国がこれを援助する」という約束を取り付けた。

こうして始まったのが、朝鮮戦争です。
昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始された。
宣戦布告なんてありません。
いきなり侵攻がはじまった。

開戦の30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を越境します。

ちなみに北朝鮮は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」と主張しています。
けれどこの主張は、ソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定している。

前線の韓国軍は、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていただけです。
どういうことかというと、韓国軍兵士の多くは、
6月の田植えのために、ほとんどが田舎に帰っていたのです。

しかもソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部が二日酔いで登庁すらしていなかった。
李承晩大統領への「北来襲」という報告すら、
奇襲後6時間経過してから、やっと韓国政府に届いたという始末です。

手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備すらありません。
そこに北朝鮮軍は、ソ連から貸与されたT-34戦車の大部隊を中核に、次々押し寄せる。
各所で韓国軍は総崩れとなります。
そして潰走した。

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朝鮮戦争の攻防
※GIF動画ですのでクリックして下さい。



金日成率いる北朝鮮は、初戦の猛攻で大勝利します。
気を良くした金日成は、一気呵成に李承晩を半島から追い落として、
5回目の光復節はソウルで行うとまで宣言した。
北朝鮮軍の士気はおおいに盛り上がります。

開戦3日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落した。
住民に多くの犠牲を出しながら、韓国政府は、首都をソウル南方の水原に移した。

このときに有名な事件があります。
ソウル陥落の際、李承晩は漢江にかかる橋を爆破したのです。

漢江にかかる橋を爆破すれば、北朝鮮のソ連製戦車部隊の侵攻を遅らせることができる。
それだけ南朝鮮政府は、逃げおおせることができる。
だから爆破したのだけれど、この爆破時、漢江の北側のソウルの街には、
まだ多数の韓国軍兵士や一般市民が取り残されていたのです。

孤立した韓国軍兵士とソウル市民は、北朝鮮軍によって随所で虐殺された。
このとき、どのようなことが行われたかは、歴史の記録に残っていません。
ただひとついえるのは、圧倒的火力でソウルの街を征服した北朝鮮の兵士たちは、
およそ人間ができる最悪の鬼畜非道を行った、
だからこそ記録すらされていないということは、容易に推定できることではないかと思います。
すくなくとも、北の兵士たちが、戦時捕虜となった韓国兵士や、
婦女子を含む一般市民を手厚く保護したという記録は、まったくありません。

さて、水原に落ちのびた韓国政府と韓国軍です。
彼らが落ちのびたとき、軍は敗軍そのものだったといいます。
士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況となっていた。

そこにマッカーサーが、東京からやってきたという記録が残っています。
水原は、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。
マッカーサーは米軍の派兵を韓国軍に約したけれど、その日のうちに東京に帰ってしまっています。

東京に帰ったマッカーサーは、米国政府に在日米軍2個師団を投入するように進言しました。
しかし戦争の再発をおそれたトルーマン大統領は、米軍参戦を許可しない。
それでも食い下がるマッカーサーに、トルーマンは、ようやく1個師団だけの派兵を許可します。

大統領の許可を得たマッカーサーは、
日本に駐留していた第24師団の第21連隊第1大隊を基幹とする師団を水原市に派遣します。
部隊は水原南方の烏山の高地に陣取って北朝鮮軍を待ち受けた。

対する北朝鮮第4師団は、ソ連製T-34-85戦車やSU-76M自走砲などの車輌を先頭に烏山に迫ります。

このとき派遣された米第24師団は、大東亜戦争での経験を持たない、新たな徴用兵たちです。
旧日本軍との戦闘経験を持つ精鋭は、戦いに疲れ、すでに本国に帰還していたからです。

北朝鮮軍を視認した米軍は、バズーカなどで攻撃を加えます。
しかし相手は、ソ連の誇る新鋭T-34/85戦車です。
バズーカ砲ごとできは、まったく歯が立たない。

北朝鮮軍の戦車と歩兵は各所で戦線を突破し、米軍は総崩れとなって大敗してしまう。

マッカーサーは、米精鋭部隊の派遣を要請するけれど、
戦争に倦んだ米国世論は、これを許しません。
トルーマン大統領は、できたばかりの国連安保理に諮り、
第二次大戦戦勝国諸国での多国籍軍を編成し、これを朝鮮半島に送り込みます。
けれど、明確な指揮命令系統のない、混成の国連軍は、各所で敗退してしまう。

李承晩は、水原も捨て、南へ南へと、逃げました。
このとき敗走する李承晩は、自国を守れず潰走しながら、
武器を持たない一般市民を、韓国保導連盟員や共産党関係者だと決めつけ、
一方的に20万人以上の韓国国民を虐殺しています。
武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨ててでもひたすら逃げ隠れした李承晩は、
武器を持たない自国民に対しては、平気で虐殺の限りを尽くしたのです。

一方北朝鮮は、忠北清州や全羅北道金堤で、
大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を
「右翼活動の経歴がある」などと難癖をつけて大量に虐殺しました。
北の金日成、南の李承晩は、互いに武器を持たない一般市民を虐殺しあっていたのです。
そしてこの虐殺から逃れてボートピープルとなった朝鮮人たちが、
大挙して日本に逃げてきて、いまの在日朝鮮人問題をひき起しています。

さて、朝鮮戦争の話を続けます。
李承晩は、ついに朝鮮半島南端の釜山まで追い詰められてしまいました。

釜山というのは、韓国の最も日本寄りの港町です。
いまでも日本から韓国への観光船の定期便は、福岡ー釜山間を運行している。
つまり、日本に一番近い韓国の都市が釜山、というわけです。

李承晩ひきいる韓国政府と韓国軍は、ついにそこまで追いつめられたのです。
釜山は、この時点で韓国にとっての最後の砦、韓国軍は釜山を取り巻くように防御線をひきます。

このとき、米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されていました。
けれど国連の多国籍軍は動かない。
兵力の逐次投入という愚をさけるためと称して、
彼らは兵力を釜山にとどめたまま、戦いに参戦しなかったのです。

タテマエは「戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つ」というのです。
けれど本音は、韓国軍が連戦連敗しているのに、
なんで自分たちが命がけで北朝鮮と戦わなければならないのか、というものです。
このことは、私たち日本人も、よく肝に銘じておく必要があります。
日米安保だ、国連だと言っても、天は自ら助ける者を扶けるのです。
自分たちで戦おうとしないような弱虫に、誰が変わりに命がけで戦うものか、ということです。

朝鮮戦争で、韓国軍が釜山という南の果てまで追いつめられたのには、もうひとつの理由があります。
実は、韓国軍の兵士というのは、
その多くが日本統治時代に、日本軍に在籍していた者たちだったのです。
けれど個人的怨恨から日本が嫌いな李承晩は、
日本軍によって薫陶を受けた元日本軍士官だった朝鮮人や、
元日本軍兵士だった兵士たちを嫌い、軍の主要な任務に就けなかっただけでなく、
元日本軍兵士だった朝鮮人だけでの部隊の編制を厳禁していたのです。

どんなに訓練を受けた強い兵士や士官でも、上に立つ者がアホなら、戦果はあげられません。
なぜなら軍は上官の命令によって動くものだからです。

そして韓国軍は、ついに釜山まで追いつめられた。
このとき、韓国軍に金錫源(キム・ソクウォン)という人物が現われます。

彼は、漢城出身のコリアンです。
日本の陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、
満州事変やシナ事変で一個大隊を率いて中国軍を殲滅し、
朝鮮人としては初、また生存している佐官クラスでは、
異例の功三級金鵄勲章を天皇陛下から授与された経歴を持つ人物です。

金錫源は、軍事対策会議に出席すると、国連軍の総司令官がマッカーサーであることを哄笑します。

「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。
よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、
存分にみせつけてやりましょう。」

彼はそういって軍刀の柄をたたいた。
李承晩にしても、釜山が陥落すれば、もはや朝鮮半島は完全に北朝鮮に支配され、
己の命もなくなることは、この時点で十分承知しています。

そしてこの段階に至って、はじめて李承晩は、金錫源の言を入れ、
元日本軍兵士たちだけでの師団を編成することを認めます。
金錫源は、元日本兵だけを集め、1個師団を編成する。

軍事経験に乏しく、十分な訓練を受けていない日本軍での訓練経験のない韓国人士官たちは、
敵が来ると、我先に逃げてしまうのです。
軍は指揮官によって動く。
指揮官が敵が見えただけで逃げ出す軍では、どうにもならなかったのです。

それが釜山まで追いつめられた時、やっと念願の元日本軍士官に率いられた、
元日本軍兵士たちによる部隊ができたのです。

金錫源は、一個師団を編成すると、全員の前で薫陶を行います。
このとき、演台の変わりに、近くにあった大きな壷に乗って、兵士たちに薫陶した。
金錫源将軍は、兵士たちに必勝の檄を飛ばしたのだけれど、
そのとき力一杯足を踏み鳴らしたために、その壷のフタが割れ、足が壷に入ってしまった。
なんとその壷は、糞壷だったそうです。
平時であれば笑ってしまいそうな話ですが、
そのときの金錫源将軍の迫力は、ものすごく、兵士たちはひとりとして笑うものなどいず、
全員が必勝の意欲に燃えたといいます。

そして師団は、8月15日深夜、粛々と釜山東部の守備に向かう。
その途中、金錫源将軍は、師団の一部の兵士を夜陰にまぎれてどこかへ逃がします。
なぜ逃がしたのか、この時点では誰も知りません。

師団の移動の様子は、北朝鮮側から丸見えです。
なんのことはない。裸同然で、銃器程度の武器しかない一個師団です。
ソ連製戦車の前では、赤子同然の兵力でしなかい。

金錫源将軍の師団が釜山東部で配置に付いた時、
北朝鮮軍は、戦車を先頭にした大軍で、これを包囲します。
集中放火によって、完全に金錫源将軍の師団を殲滅する作戦です。

この包囲によって、金錫源の師団は完全に孤立してしまう。
そして双方の戦いが始まった。

金錫源は、飛び交う銃弾の中で、日本刀を振りかざして陣頭に立ちます。
そして敵軍を睥睨し、撃て~!と叫ぶ。
その姿は、これこそがほんとうの軍人の姿だ、と兵の士気を著しく高めたといいます。

金錫源たちが奮戦している間、米軍は動きません。
多国籍軍も、釜山にあってひたすら沈黙を守っています。
つまり、金錫源率いる師団に援軍はないのです。
「孤軍」の状態で、金錫源たち旧日本兵師団は戦い続けた。

金錫源は、頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中すると、北朝鮮軍に一斉砲撃をしかけます。
そして、にわかに突撃を命じます。

相手は命知らずの旧日本軍韓国兵です。
北朝鮮軍はあわてて後退した。

敵殲滅の好機到来です。
金錫源の士気はいやがおうにもあがった。

ところがこのとき、なぜか金錫源は、全軍に退却を命じます。
深夜です。
日付はすでに16日になっている。

北朝鮮軍は、韓国軍が退却し始めたのを見ると、
反撃に転じ、金錫源軍をいっきに殲滅させようと迫ってきます。

金錫源将軍の師団は、岬を回って潰走します。
とにかく逃げる、逃げる。
北朝鮮側は、まさに好機到来と、金錫源将軍の師団を追います。
全軍一丸となっての猛烈な追撃です。
北の戦車部隊も、一気に追い、責め立てる。

そして北の戦車隊が岬を回り込んだときです。
そこにこつ然と、米軍の大艦隊が出現したのです。

ソ連製の戦車は、装甲が厚く、銃や迫撃砲、バズーカ砲などではまるで歯がたちません。
けれど戦艦から繰り出される対戦艦用の大型砲門相手ではどうでしょう。
戦車の巨体よりもさらに大きい、米艦隊の砲弾が、雨あられと北の戦車部隊に降り注いだのです。
これには北の自慢の戦車部隊も一網打尽です。

実は、前夜、金錫源将軍の師団が移動中、一部の兵士に命じ、
作戦の詳細を米艦隊に連絡させてあったのです。
師団がおとりになり、北朝鮮軍が進路を東に転じて海岸線にでたところに、
米艦艇から一斉に艦砲射撃をあびせるようにと、です。

それまでの弱腰だった韓国軍に、最初は半信半疑だった米海軍も、
金錫源将軍が元日本陸軍の左官であり、勲章ももらっている人物であると聞き、
それならもしや、と艦隊を待機させてくれていたのです。
要するに日本の信用で、米艦隊が動いた。

天地がくつがえるかと思われるような轟音がひびき、
無数の砲弾が北朝鮮軍第五師団のうえに降りそそぎます。
米国誇る太平洋艦隊の主砲です。T型戦車などひとたまりもない。

それを待っていた金錫源の第三師団は隊列を変化させ、
北朝鮮軍を包囲して砲撃を開始します。艦砲、迫撃砲、榴弾砲などあらゆる種類の砲弾が火を噴いた。
北朝鮮の戦車は粉砕され、兵は空中に飛ばされ、
隊列を乱して逃げる北朝鮮兵士は、金錫源将軍の師団の銃撃の恰好の餌食となった。

追って来た北朝鮮軍は、一瞬で壊滅し、兵士たちがバラバラになって敗走をはじめます。

ところがその潰走ルートには、金錫源が、
やはりこれも前夜のうちに金錫源将軍があらかじめ忍ばせた伏兵が待ち受けます。
伏兵たちは、潰走する北朝鮮兵に猛射をあびせた。

「草木皆ナ兵ト化ス」

恐慌状態におちいった北朝鮮軍は、軍隊組織として統制のとれた行動をすることが不可能となってしまいます。
北朝鮮軍は予想外の損害をうけ、いったん盈徳を放棄して西北にさがり再編を余儀なくされてしまいます。
それだけでなく、友軍との連携すらとれなくなり、各部隊の孤立化がはじまった。

8月22日、金錫源たちが戦った釜山の反対側の西側では、
遊鶴山のふもとを守っていた韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃に耐えかねて後退を開始ます。
ここにも元日本兵が数多くいた。

このままでは米軍第27連隊の側面が敵にさらされてしまいます。
韓国も、米軍も、戦線の崩壊はまぬかれません。

そこに、白善(ペク・ソンヨプ)師団長が駆けつけます。
そして散らばっていた元日本兵だけを集合させて座らせた。

白善も日本軍の出身です。
昭和14(1939)年平壌師範学校を卒業したのち、奉天の満州軍官学校に入学、
昭和16(1941)年に卒業して満州国軍に任官し、
昭和18(1943)年には間島特設隊に配属され戦った経歴を持ちます。

実はこの日、白善師団長はマラリアを患って高熱を発し、病院にいたのです。
けれど釜山西側の危機を知った白師団長は、集まった西側守備隊の兵士たちに
「二日間,補給もないのによくがんばってくれた。感謝の言葉もない」
とねぎらいの言葉をかけると、

「ここが破れればわれわれには死が待っている。それに見ろ。
アメリカ人もわれわれを信じて戦いに来ている。
かれらを見捨てることができるか」と静かに語った。

そして突然立ち上がると、大声で兵士たちに言った。

「ただいまより、あの四八八高地を奪回する!
 ワレに続け!
 もし俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」

そうさけぶと、銃をとり、先頭にたって突撃を敢行したのです。
兵たちは驚きます。
いきなり前線に、マラリアで入院中の師団長が現れたかと思ったら、
鬼気がのりうつったかのように咆え、駆けだしたのです。

「師団長に続け~~!」

鬼人と化した元日本軍の韓国兵は、わずか一時間で四八八高地を奪還してしまいます。
そしてそこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせた。
そしてここでも北朝鮮軍は完全に潰走してしまいます。

前線の北朝鮮軍が無力化されたことで、米軍はその退路を断つ作戦を発動します。
そして仁川に上陸すると、南進していた北朝鮮軍の補給路を完全に断ち、
9月28日には、ソウル奪回を果たした。

勢いを得た米韓多国籍軍による南軍は、反攻に転じ、
10月1日にはそのまま38度線を突破、10月20日には、北朝鮮の臨時首都の平壌までも制圧します。

北朝鮮が完全に壊滅とみられたとき、中国共産党義援兵が北朝鮮に味方して参戦します。
100万人以上の大兵力です。
米韓多国籍軍は、シナの人海戦術に、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。

しかしシナの大軍の装備は、ソ連から補給された日本軍の残存兵器です。
それ以上の装備はない。旧式兵器に頼るシナの援軍は、
度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍ってしまいます。

米韓多国籍軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、翌年3月14日にソウルを再奪回。
しかし、戦況は38度線付近で膠着状態となった。

そして最終的に38度線を休戦ラインとして、現在にいたっています。

以上が朝鮮戦争の概略です。


こうした史実をみるとき、いつも思うのは、戦いにおける「勢い」と「転機」ということです。

北朝鮮の南進により、もはや対馬海峡に追い落とされるのも時間の問題にまでなった韓国軍を、
その窮地から救ったのは、旧日本軍に所属し、数々の武功を立てた元日本兵でした。

上に登場した金錫源将軍は、朝鮮動乱で韓国軍が雪崩を打って敗走を重ねた時、軍刀(日本刀)を振りかざし、
「攻勢こそは最大の防御」
「死をもって戦うときにのみ勝機は訪れる」と部下を叱咤激励したといいます。

韓国軍が釜山で辛うじて全軍の崩壊を免れ踏みとどまったのは、
かつての大東亜戦争の英雄が「ここにあり」と奮戦する姿に鼓舞されたからだともいいます。

金将軍は多くの将校が近代戦には邪魔になるといって軍刀をはずす中にあって
「日本刀は武人の魂である」と、ひとり軍刀(日本刀)を手放さない人でもあった。

昭和55年、金錫源将軍は、靖国神社に参拝しています。
靖国には、フィリピンのルソン島各地を中隊長として転戦し、
アレプンヨ高地で壮烈な戦死を遂げた彼の次男、金泳秀が祀られている。

金錫源将軍は、参拝後、一緒に参拝した元日本陸軍の兵士たちにこう語ったといいます。

「自分の息子は戦死した。
それは軍人として本望である。
本人も満足しているであろう。」

息子を犠牲者として日本を恨むような卑怯な姿は、金錫源将軍には、微塵もなかったのです。
逆に、並いる旧日本軍将兵らが、金錫源将軍に「軍人精神の神髄」を見たと感嘆した。

ご存知の通り、朝鮮半島は北と南に、いまも分断されています。
日本統治時代までは、朝鮮半島はひとつだったのです。
それがいまでは、親戚であっても行き来ができない。
厚い鉄のカーテンによって北と南は38度線によって分断されているからです。

大東亜戦争が終わったとき、統一朝鮮がちゃんとできていたのです。
それを潰したのが、米国でロビー活動をしていた李承晩でした。

そしてその李承晩が、シノゴノ言っている間に、
ソ連は北の金日成に力を与え、半島北部を共産党によって占領させた。
慌てて李承晩は南に政府を作るのだけれど、これを危惧した金日成は38度線を超えて、南に攻め込んだわけです。

そのとき李承晩は、味方さえも見捨てて逃げ出した。
逃げ出しただけでなく、あたりにいる韓国市民が、
みんな共産ゲリラに見えた李承晩は、行く先々で同国人を片端から虐殺しています。

自国民を殺しながら逃げる李承晩、追う北朝鮮軍。
南朝鮮も、ちゃんと戦えば、もしかしたら早期に北を駆逐できたかもしれない。
それを阻害したのは、やはり李承晩です。
日本嫌いな彼は、元日本軍関係者だというだけで、
疑いを持ち、元日本軍士官だった者たちを重用せず、指揮はいつの時点でも、日本軍と関係なかった者だけを用いた。
その結果は、常に南朝鮮の完敗です。
それだけでなく、米軍にも多大な損害を与えてしまっている。

そしてついに韓国最南端の釜山まで追いつめられたとき、
李承晩はやっと元日本軍士官と、元日本軍兵士に軍の指揮を委ねた。
その結果、なんと最南端の釜山まで追いつめられていた南朝鮮は、
逆に北のはずれの平壌まで、北を追いつめることになったのです。

毛沢東率いる百万の支那人民解放軍の参戦を得た北は、
戦線を38度線までようやく盛り返したけれど、そこで停戦に応じたのは、
韓国にいた元日本軍兵士たちがあまりに強かったからに他なりません。

けれど、大韓民国を建国し、初代大統領に就任した李承晩は、
それでも日本が嫌いで、日本との国境線を勝手に定めた(李承晩ライン)りもしています。
そして韓国建国の理念は、なんと「日本によって奪われた朝鮮半島を、朝鮮民族の手に取り戻した」というものとなっている。
つまり、日本=悪であり、自分たちは両班が取り仕切っていた
平和で豊かな朝鮮半島を取り返した英雄であるという仮説に立った国つくりをしました。

なるほど李氏朝鮮の時代、朝鮮貴族の両班たちにとっては、まさに半島は天国だったかもしれません。
なにせ一般国民には私有財産すら認めず、女性には名も与えず、
両方の乳をすぐに露出させれる服を着ることを強制し、
女は犯し放題、財産やカネも奪い放題の特権階級を作っていたのですから。

けれど両班にとって天国だったという朝鮮半島は、
他の99%以上の国民にとっては、地獄そのものの国でしかなかった。

李承晩は、朝鮮戦争で敗退を続けるときに、同国人を何十万人と殺しています。
そういう、手前勝手なご都合主義の人物が、韓国建国の主となり、韓国という国家の基礎を築いた。

このことは、誰よりも韓国の人々にとって、とても不幸なことであると、ボクは思います。
















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