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朝鮮半島のあまりにお粗末な歴史(ねずさんのひとりごとより転載)

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誤解をされたくないのですが、私は朝鮮半島の人だからといって、十把一絡げに悪だとかダメだとかいう気はまったくないです。
朝鮮人と日本人は、顔がよく似ているといいますが、もともと朝鮮半島のいまの韓国の南半分は、いまの九州、四国、本州同様、倭国そのものです。
隣国ではなく、倭国だったし、そこにいたのは倭人(日本人)です。

また韓国の北半分の百済、新羅も日本への朝貢国、しかも新羅はわざわざ日本人を国王に迎えて、「自分たちの王朝は日本人の血をひいている」ということが新羅王朝の正統性だったわけです。
その新羅によって百済も、南半分の倭国も滅ぼされ奪われますが、当時は倭人たちの流れをひく国ですから、民がタカラです。ですから皆殺しをするようなこともせずに、そこにいた倭人や百済人たちを、そのまま新羅人に組み込んでいます。
つまりもともとが日本人(倭人)だった人たちが多いわけですから、日本人と似ている人が多くてあたりまえなのです。

けれど、その後がよくなかった。
新羅も裏切り国ですが、その後の高麗王朝も、李王朝も、自国を裏切り、支那に擦り寄ることで自分たちの王朝を築き、支那方式に倣って反対派を粛清し、反対させないために自国民の言論も教育も完全に奪い去りました。
そして朝鮮半島の南は七世紀から1300年間も、ずっと民衆はただの隷民として扱われ続けました。
いや、隷民というのは、きれい過ぎる表現かもしれません。
むしろ、ヒトモドキやケモノとして扱われ続けたのです。

ケモノというのは、弱肉強食です。
強いものは常に弱いものを蹂躙する。
そういう厳しい環境下に置かれ続けたわけです。
ですから韓国には、支配層の王朝の歴史はあっても、民衆の歴史はありません。
民衆の歴史がないということは、民族の歴史がないということです。
そして歴史がないということは、アイデンティティも育たない。

けれど、個体差はあります。
倭人のDNAを持ち、倭人としての心を千年以上に渡って保ちつづけた人も、ちゃんといます。
ですから、総体として悪だと決め付けることには反対です。
ただ、よくない人が多いことも事実なのです。





日本人は、天皇の存在のありがたさによって、民衆がヒトどころか「たからもの」として扱われてきました。
恵まれた環境にあった、といえると思います。
たまたま出自が、恵まれていた日本人と、残念な朝鮮人で、だから朝鮮人は良くないということにはならないと思います。

恵まれた環境に育っても馬鹿者はうまれますし、残念な環境からでも、立派な人は生まれます。
その意味で、努力して真人間になろうとしている朝鮮人は、ものすごく貴重で優秀な人ということができます。
そういう人まで否定してしまうことは、これは良くないことです。
ただし、だからといって、つまらないヒューマニズムから、良くない人たちまで、一緒に保護してしまうということも、良くないことです。
そしてその良くない状態に、いまの日本はあると思います。

悲惨な歴史だったから、歴史を捏造する。これは最低のことです。畜生のすることです。
歴史を直視し、そこからいかに真人間として立ち上がるか、それができるのが人間です。

人間だから畜生を馬鹿にする。これも良くないことです。
けれど、その畜生に人が支配されたら、人も畜生になってしまいます。
そのあたりを、きっちりと区別する。
これは差別とは違います。

朝鮮半島が歴史上に最初に公的文書に登場するのは、衛氏朝鮮(えいしちょうせん)がはじめです。
衛氏朝鮮というのは、紀元前195年頃に遼東半島の根元あたりにいた連中のことで、国ではありません。
盗賊集団です。
差別とか、そういうことではありません。それが公式史書に記載された史実です。
歴史に最初に登場するのが国や民族としてではなくて「強盗団として」というのもすごい話なのですが、彼ら自身は神話が檀君で、これは強姦神話ですから、どっちもどっちです。

支那では、それ以前(紀元前403~221)の時代がいわゆる紀元前の春秋戦国時代から紀元後の三国時代で、有名な魏、蜀、呉(楚)や趙、斉、燕、秦、韓、櫓、宋、周、などの諸国がまさに群雄割拠して争っていました。この中に「韓」という国がありますが、これは支那の内陸部にあった国で、チベット系の遊牧民族の国です。朝鮮半島とは何の関係もありません。

それら群雄割拠の時代を統一したのが秦の始皇帝です。
その秦が支那を統一したとき、山東半島のあたりにあった燕(えん)では、国王が始皇帝によって、遼東半島のあたりに封じられたのですが、ほどなく秦が滅び、前漢が統一王朝を建て、前の国守であった燕は滅ぼされてしまうわけです。

これが紀元前202年のことで、このとき燕の末裔たちが、前漢に追われて朝鮮半島北部の遼東半島の根本あたりに住み着き、お家再興のためにと、盗賊団を形成しました。これが冒頭の衛氏朝鮮(紀元前195~108)です。
この盗賊団は、朝鮮半島を経由して漢と交易しようとする旅人を襲い、金品を奪ってお家の再興費に充てようとしていたというのですが、ところがここに不思議なことがあるのです。

どういうことかと言いますと、この当時の朝鮮半島中央部、つまり、いまの北朝鮮から韓国の北半分くらまでに生息していた部族は「濊(わい)」と呼ばれる種族だったのですが、その濊族と前漢との間で国交を示す記録は、どこにもないのです。

そもそも濊という文字からして異様です。
古代の支那では、周辺民族に対してろくな漢字を充てなかったものですが(たとえば匈(きょう)は、凶悪、倭は背の低い(小さい)人たちなど)、それなりにその民族の特徴を漢字一文字で上手に表しているわけです。
ところが、濊というのは、糞尿のことです。しかもその濊に、わざわざサンズイを充てています。どれだけ汚い不潔な民族だったのかということです。

不潔ということは、教養がなく、貧しいということでもあります。
教養も財力もなくて貧しければ、産物もありません。
産物がなければ、交易の必要もありません。
ということは、衛氏朝鮮にしても濊族を襲ったところで、何の利益にもなりません。お家再興のための資金稼ぎなど、夢のまた夢です。

それにそもそも衛氏朝鮮は「旅人」を襲ってお家再興の資金稼ぎをしていたと記録にあるのです。
濊族は、旅人になどならないし、旅をする資力も理由もありません。
ただ生息して、食べ物を奪ったり、人を殺して食べていただけの、まるでケモノのような連中です。あとに出てきますが、前漢にしても濊族は、ただ打ち払うだけで、濊族と積極的に交流をもとうとする努力は、まったくしていません。
つまり、濊族は、人を襲う大型の猿程度にしか認識されていなかったのです。
衛氏朝鮮は、なんの得にもならない猿を襲っていたのでしょうか。

まだあります。
前漢は、衛氏朝鮮に兵を差し向けて、結局これを滅ぼしているのですが、何のために滅ぼしたのでしょうか。
滅ぼすには滅ぼすだけの理由があります。
兵を差し向けるということは、何らかの安全保障のための必要があったからです。
衛氏朝鮮が猿山を襲って飯を食っているだけの連中なら、前漢王朝にとっては、なんの脅威にもなりません。
にもかかわらず、わざわざ兵を送っているには、兵を送っても余りあるだけの明確な理由があったからであるはずです。
こういうことについて、よく「領土野心があったからだ」などと、わかったようなことをいう人がいますが、領土野心というなら、なおのことそこに利益期待がなければなりません。期待がなければ野心もないのです。

このことについて、多くの日本人が誤解している点がありますので、そのことを指摘しておきます。
わたしたちは、古代の支那、朝鮮の歴史を見ようとするとき、なんとなく地図上で、「これが前漢の版図、これが高句麗の版図」などというように、地図で、当該国の領土を認識しています。
実は、これが大きな誤解です。

古代から中世まで、大陸に領土という概念はありません。
あったのは城塞都市国家で、ひとつひとつの城塞が「国」でした。
そして、帰順した城が、版図となっていたのです。
つまり、当時の「国の領土」というのは、どこまでも城塞都市と城塞都市という点と点を結んだものが版図であって、地域エリア全体がその国の領土という概念自体がなかったのです。
ですから、城塞と城西の間には、村(邑、邨)があったりしましたが、それらの民家やそこに住む人々は、特段、どこの国に所属ということもなく、ただなんとなく、いまはA国が強いからA国に税を納め、今年はB国の方が強くなったからB国に税を収めていた、というだけの関係です。

もうすこし噛み砕いて言うと、日本国内でもすこし前までは、ヤクザのシマでは、シマ内の飲食店が組に「みかじめ料」を納めたりしていましたが、だからといって、それらの飲食店は当該ヤクザの子分になっているわけではありません。
そしてA組よりも、今年からはB組が強くなったとなれば、みかじめ料は今度はB組に払っていました。
要するに、中世までの支那の国の概念というのは、それに近いものでしかなかったのです。

それが大きく変化したのは、実は「元の大帝国」が登場してからです。
元は、帝国の版図があまりに大きかったため、城塞都市単位では、行政がやりにくくて仕方がない。
そこで、国の版図の単位を、エリアでひとくくりにしたのです。
ですから、元が登場するまでは、大陸に、エリアを一括りにした版図という概念は存在しません。

ちなみに元の大帝国は、13世紀から14世紀にかけて存在した大帝国ですけれど、日本では、古代大和朝廷の時代(弥生時代)にはすでに原始共同体としての邑(ムラ)が統一されて「国」が形成され、7世紀の大化の改新、そして公地公民制がしかれる頃には、完全に日本国内は、エリア単位で行政の枠組みができあがっていました。
そういう意味で日本は、国民国家、民族国家として、また、行政エリアの設定という意味において、世界的にみても、ものすごい先進国だったのです。

話が脱線しました。本題に戻します。
朝鮮半島に、前漢は、紀元前に漢族の築いた大帝国(紀元前206年〜西暦220年)ですが、その漢は、いまの平壌や、京城(ソウル)に、城塞を築いているのです。
いまは平城となっているあたりに「楽浪郡(らくろうぐん)」、これが紀元前108年から西暦313年まで。
いま漢城(ソウル)となっているあたりに「帯方郡(たいほうぐん)」で、これが西暦204年から313年までです。
どちらも高句麗によって同じ313年に滅ぼされているのですが(ほろぼされたときは晋が経営)、それまで楽浪郡は約400年、帯方郡も約100年、そこに城塞が建設され、支那の兵が駐屯していたわけです。

そしてこれが不思議なことですが、普通、「わざわざ城を築いて郡庁を置く」というのは、当該地域から税を取り立てるためです。
ところが、この楽浪郡、帯方郡とも、城塞の外側を支配し、支配下に置いた痕跡が何もないのです。
実際、城塞の塀の内側からは、当時の支那の高い文化を示す遺品がたくさん出土するのですけれど、その城壁の外側からは、遺品がまったく出土しません。
ということは、楽浪郡も帯方郡も、城塞の周囲の種族とは、まったく交流をもっていなかった、ということです。

記録もあります。
楽浪郡、帯方郡とも、年中、「周囲に住む濊族(わいぞく)が襲ってきた、それを撃退した」という記録ばかりがあるのです。

濊族というのは、当時、朝鮮半島にいた種族です。
原始朝鮮人と言いたいところですが、違います。
朝鮮半島では、いまから12000年前までは、人が住んでいたことを示す遺跡が数十箇所あるのですが(日本だと5万箇所くらい)、ちょうどその頃から約7000年前までの5千年間、人類がいたことを証明する遺跡がまるでありません。
これは、1万2000年前まで住んでいた人たちが、火を使い、半島の森を燃やし尽くして禿山にし、半島に人が住めなくなって、どこかに去ってしまい、約5千年をかけて自然がようやく緑を取り戻したことで、人が住めるようになった、ということを表しています。

そして朝鮮半島には、北から遊牧民である女真族がすこしずつ入植するようになるのですが、広大な平野部が広がる大陸だから遊牧が可能なわけです。
樹々や森に覆われた朝鮮半島では、遊牧生活も規模の小さなものしか営めず、結果として、相当貧しい人たち(大陸に戻れなくなった遊牧族)が、そこにいたわけです。

その彼らに、支那人(漢族)は、「濊(わい)」の文字を当てました。
「濊」というのは、汚穢(おわい)のことです。
つまり糞尿のことです。
古代の支那人は、たとえば日本人に対しては「背が低い人」を意味する「倭」の字を当てたりして、だいたい周辺民族にはろくな字を当てなかったのですけれど、なかでも「濊」は最悪です。

ちなみに、糞尿を意味する「汚穢」の「穢」は「のぎへん」です。
のぎへんというのは、穀物を意味する漢字で、これが「歳」とくっついて、毎年の穀物、これに「汚」の字がついて、穀物を育てるための肥料を意味する漢字になっています。
つまり、肥溜めで有機発酵させた糞尿が「汚穢」であって、不潔なものというよりも、日本では人々の役に立つたいせつな肥料という意味で、この熟語が作られています(二字熟語にして意味をもたせるのは日本の文化です)。

ところが「濊」はサンズイであり、直接、糞尿を意味します。
どれだけ汚い連中だったのか、ということです。

紀元前3世紀から紀元4世紀の初頭まで、その濊族が頻繁に楽浪郡、帯方郡を襲いました。
けれど、ことごとく撃退されていたわけです。
なぜ城塞側が撃退できたのかといえば、これはもう文化文明力の違いとしか言いようがありません。

けれど、おかしいのです。
周囲に濊族しかいない地域に、どうして漢や晋や魏などの大帝国が、わざわざそこに郡庁を置き、人や兵を派遣していたのでしょうか。
普通に常識で考えればわかることですが、城を営み兵を派遣するとなれば、それは経費がかかることなのです。
ということは、その経費を補って余りあるだけの軍事的、もしくは経済的メリットがなければ、そこに郡庁を置く意味はありません。
しかも置かれていた期間は、まる500年間なのです。

このことは、当時の地図をみれば、答えは一目瞭然です。
当時、朝鮮半島の南部(いまの韓国の南半分)には、馬韓、弁韓、辰韓と呼ばれる地域がありました。
そしてこの馬韓、弁韓、辰韓は、倭人の住む、倭国の領土だったのです。

この馬、弁、辰は、支那側の呼称です。
倭人たちは、これらの地を加羅(から)と呼んでいました。
その「から」に、漢人たちは「韓」の字を充てていました。
そして郡庁が置かれていたのが弁にあった「みまな(任那)」で、これがいわば明治になって置かれた朝鮮総督府のようなところです。

倭人たちが朝鮮半島南部に入植をはじめたのは、いまから7千年ほど昔にさかのぼります。
この頃鹿児島沖でアカホヤの大噴火があり、土地が火山灰に覆われたたため、倭人たちは腹を満たすために、大型の魚を採るために、沖合に漁業に出るようになりました。
それが流され、海流とともに朝鮮半島に流れ付いたわけです。
この時代は、時代区分でいえば縄文時代ですが、その縄文時代、倭人たちは遠く南米にまで足を伸ばしていたことが遺物によって確認されています(南米で縄文式土器出土)から、朝鮮半島と日本の間の航海など、お手のものです。
そしてちょうどこの頃から、辰韓あたりから、日本式と同じタイプの大型の釣り針が出土しています。
つまり、倭人たちの入植がはじまったのです。
そしておそらくは紀元前3世紀頃には、加羅の地は、倭国の一部として、大きく栄えていました。

その倭国は、まだ鉄器がなかった時代に、鉄より硬いヒスイを加工して勾玉にしてしまうほどの、高い工業生産力を持った国でした。
先日も書きましたが、富というものは、奪うか創るかでなければ築くことができないものです。
そして奪うことよりも創ることを大事とした倭国は、その頃から、高い工業生産国であったし、だからこそ、倭国との交易は、漢王朝にとっても、魏にとっても、晋にとっても、たいへんな魅力と富をもたらすものであったわけです。

つまり、漢や魏や晋が、楽浪郡、帯方郡に郡庁を置いたのは、濊族を治めるためでもなんでもなくて、倭国との交易をスムーズに行うため、長い距離の交易の途中で濊族に襲撃されるのを防ぐための必要から、まさにそこに郡庁を置いていたということが、歴史の必然から、わかります。

同様に、倭国も朝鮮半島に郡庁を置きました。
それが先ほど申し上げた「任那日本府」です。
馬、弁、辰は、日本式の呼び名ですと比自保(ひじほ)、南加羅(みなみから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たづみ)、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)などと呼ばれていました。

一方、朝鮮半島の中部に生息した濊族は、長い年月の中で、倭人たちが教育を施し、加羅における鉄の採取の労働力として使うようになりました。
その後に、いまの北朝鮮あたりに高句麗、いまの韓国北部に百済、新羅ができます。

百済については、『唐会要百済伝』に「百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海」と書かれています。
意味は、「百済は、扶余(ふよ)の別種で、馬韓の故地にあり、後裔に仇台(くたい)なる者がおり、高句麗に国を破られ、百家で海を渡り、百済と号した」です。
つまり、ツングース系の扶余族が、倭国に隣接したあたりに住み着き、これが百済になったわけです。
百済では26代の聖王が、538年に国号を「南扶余」としていることが、この説を裏付けています。

また『隋書』百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」とあります。
「百済の先祖は高句麗国から出て、そこには新羅、高句麗、倭人、中国人が混在している」と書かれているわけです。
要するに、雑種となった百済あたりの住民が、倭国の加羅とは別に、雑種国としてツングース系(女真族)を中心に、百済を形成したと考えられています。

これに対し、新羅は、倭人を王にしているという違いがありますが、こちらは濊族を中心とした雑種であったようです。

朝鮮半島の人たちは、自分たちのことを「カラ」と呼ぶことがありますが、「カラ」というときは、なんだかほっこりとしたやさしさのあるあたたかみを感じるのだそうです。
朝鮮半島における「カラ(伽羅)」は、はるか昔に滅んでなくなってしまっている倭国ですが、それでも、倭国の一部として栄え、平和であったころの記憶が、いまでも彼らのDNAの記憶として残っているのかもしれません。

こうした説明をすると、
「いやそんなことはない。朝鮮半島には衛氏朝鮮よりも前に、箕子朝鮮(きしちょうせん)や、檀君朝鮮(だんくんちょうせん)があったではないか」という人がいましたが、これは大爆笑の議論です。

「箕子朝鮮(きしちょうせん)」というのは、紀元前1122年から紀元前194年、つまり衛氏朝鮮が誕生するまで、約千年続いた朝鮮王朝だと彼らはいうのですが、そもそも「朝鮮」という名称は、明の洪武帝(こうぶてい)から李氏朝鮮が、「お前たちが新たに政権を取ったのだから、いつまでも高麗と名乗るわけにはいかないだろう」と、朝鮮という称号を与えてもらったことによって出来た名前で、これは14世紀の出来事です。
つまり、それ以前に朝鮮という名はありません。
(衛氏朝鮮は、あとからできた名称で、もともとはただの衛氏です)

では、三国志魏志伝に書かれた「箕子朝鮮」は何かというと、これは遼東半島にいた鮮卑(せんぴ)の一族のことで、朝鮮族とは何の関係もない、遊牧民の王朝です。
もっというなら、朝鮮半島の北側に、たまたま「箕子」という遊牧民の鮮卑族がいたから、これを朝鮮族であったと強弁しているだけのことです。

鮮卑は、遊牧民です。
家畜の食べる草を求めて、常に移動します。
その鮮卑族が、遼東半島のあたりまで、たまたまきていたというだけのことでしかなく、王国ですらありません。

檀君朝鮮(たんくんちょうせん)に至っては、建国されたのが5011年前というのですが、これは明治時代に朝鮮半島で新造された神話です。
当時、明治維新による近代化を成し遂げ、日清戦争にも勝利した日本には、支那からたくさんの留学生がやってきました。当時の日本は、神武天皇以来2500年を皇紀として使用していました。

これに影響を受けた支那人留学生たちが、じゃあ、自分たちの国にもそういう歴史を作ろうじゃないかということになって、突然、降って湧いたように言い出したのが「中国5千年」で、なぜ5千年かというと、日本が2500年だから、とりあえず倍くらいにしとけ、と言い出しただけのものです。

そしてこれに刺激を受けた朝鮮の学生たちが、中国が5千年なら、俺たちはそれよりも11年早く、5011年と言い出しました。
なぜ+11年にしたのかは不明です。
同じ嘘でも、「日本の二倍にしとけ」という、ある意味気宇雄大な支那人に対し、たった「+11年」という「せこさ」は、いかにも汚濊族らしいといえるかもしれません。

要するに、「箕子朝鮮(きしちょうせん)」も、「檀君朝鮮(たんくんちょうせん)」も、ただの捏造です。
そして歴史上、朝鮮半島に、最初に登場する国が、泥棒国家の「衛氏朝鮮」であり、これを漢が滅ぼしたというのが歴史の事実でしかありません。

時代はこれよりもずっと後になりますが、遣隋使、遣唐使の時代、毎回大型船を4〜5艘仕立てて、日本の文物財宝、特に日本は古来、世界有数の金の産出国でしたから、大量の金などを積み込んで、日本は使節を支那に派遣していました。
ところが往復の成功率は、2〜3割程度です。
あとはみんな途中で船が沈められたと、みなさまも学校で習ったと思います。

けれどそんなに海の旅が危険なら、朝鮮半島を陸路で北上すれば良いだけのことです。
ところが東シナ海横断ルートなどという、外洋のど真ん中を突っ切るような危険な航海をしてまでも、ついぞ、朝鮮半島を陸路で使節を派遣するということは行われませんでした。
これが何を意味するかというと、シケにあって遭難する危険があったとしても、朝鮮半島を陸路で行くよりは、はるかに、海路の方が安全性が高かったということなのです。

遣唐使、遣隋使の成功率の低さが、外洋船舶の造船技術が未達だったなどと、アホな説を唱える学者がいますが、弥生時代の日本産の黒曜石の分布などをみても、日本は日本海を経由して満洲あたりにさえも、盛んに交易をしているのです。数千年も前から、日本は海洋ルートで、北は青森から南は沖縄、台湾、フィリピン、ベトナム、遠くインドにまで、盛んに海上交易をしているのです。
時代をもっとさかのぼれば、縄文時代には南米のエクアドルまで交易の足を伸ばしていたことが、魏志倭人伝に書いてあります(水行一年の先にある黒歯国は倭国の領土)。

つまり、それだけの造船と航海技術を日本は持っていたのです。
にも関わらず遣唐使遣隋使の航海が危険だったというのは、もはや人為による不成功原因しか考えられないのです。
そして旅人を襲って利得を図るというのは、紀元前2世紀の衛氏朝鮮もさりながら、大東亜戦争終戦直後の朝鮮半島において、多くの日本人女性が酷い目に遭わされたり、財物を奪われたり、それこそ、着ているものをふんどしまで剥がして奪ってしまう濊族の行動に、そのまま現れています。

さて、倭国の影響を受けた濊族の一部が、百済を興し、新羅を興しました。
そしてこの両国は、日本に朝貢し、日本の技術を導入することで富を貯えました。
そして両国は、国力を養ったものの、結局新羅が裏切って支那と結び、百済を滅ぼしたうえで、高句麗も支那の軍事力を借りて滅ぼし、新羅王朝を形成しました。

その新羅も、やはり国を裏切って支那と結んだ高麗によって滅ぼされました。
その高麗も、支那と手を組んだ李氏朝鮮に滅ぼされました。
そしてずっと朝鮮半島は、支那の属国とされ続けてきました。

代々の支那の王朝は、李氏朝鮮王から収奪をするだけです。
その朝鮮王は、部下の両班から収奪するだけです。
その両班たちは、庶民から収奪するだけです。
結果、産業もなけば特産品も育たない。
だから李氏朝鮮が、支那の王朝に献上できるのは、女性だけです。
哀れなものです。

そんな哀れな状態に、明治にはいって、やっとのことで日本が支那と手を切らて独立させてあげたのに、今度はロシアと組もうとしたり、朝鮮の独立だといって関東大震災で火付け盗賊をはたらきました。
とにかく正義や人道が理解できない。
「いまさえ良ければいい」「自分さえ儲かればよい」というその場しのぎの御都合主義しかない。

どうしても日本から独立したいというから、戦後、日本は独立を認めてあげただけでなく、総額21兆円、国民ひとりあたり45万円という莫大な資産を朝鮮に寄贈してあげたのに、彼らはせっかく受け取ったその資産を、結局は朝鮮戦争という内乱で、全部つかってしまいました。
世界のトップクラスの富のある国から、かれらはたった3年で世界一の最貧民国に堕ちてしまったのです。

やむなく日本が、あらためて国家予算の3倍のお金をつぎ込んであげて、彼らは漢江の奇跡と呼ばれる大発展を遂げますが、それも工業化とは名ばかりで、実は、日本から部品を供給してもらい、その組み立てと包装をしただけのことです。
ひらたくいえば、実際にはできあがった製品を袋詰めしかしていないのに、「ウリたちの国の生産物だ」「ウリたちは工業国だ」と見栄を張ったわけです。

そして儲けた金は、なんと世話になった日本に対する反日工作に、全部遣ってしまいました。
本来なら、国家インフラの整備のために、その儲けた金は遣われるべきだったのに、使い道が世話になった日本への裏切り工作資金に、費消したのです。

それでいま、三たび経済の破綻に瀕し、今年は反日路線から少しだけ路線変更して、歴史問題は横に置いておいて、経済は仲良くしましょうと、調子よくまた日本に助けてもらおうとしているのだそうです。
これが個人なら、どうみても、ただの極道者の禁治産者です。

日本人は、へんにやさしくて、韓国の人たちも「同じ人間じゃないか」と、すぐに思いたがるし、困っている人がいれば、なんとかして助けてあげたいと同情してしまいがちです。
これを言っていたのが、戦前は日本の右翼、戦後は左翼と呼ばれる人たちです。
同じ人間なのだから、隣に困っている人がいるなら、助けてあげるべきだという人道を持ち出します。

けれど、これだけはいえることですが、民族のもつ精神構造というのもは、犬種も人種も変わりません。
収奪すること以外に、生きるすべをもたず、古代においては、日本を追い出してまでして、太古の昔から反日と裏切り行為をずっとやり続けてきたのが朝鮮半島です。
いまさら、助けてあげる必要など、毛筋ほどもないのです。

もちろん個体差はあります。
積極的に真人間になろうと努力しているまっとうな朝鮮人がいることも事実です。
しかし、そのまっとうな朝鮮人も、国に帰れば、その家族を穢族の人質にとられているわけです。

そして、その汚穢族が、実は、なにひとつ日本に教えてくれたことなどないのに、「俺たちが兄だ、俺たちが日本にすべてを教えてやったのだ」と言い張り、それをあろうことか、学校の教科書にまで仕立てて子供たちの教育に使っているという恥知らずなことを、平然とやってのけています。

日本は、そういう朝鮮族のいかがわしさに愛想をつかしたからこそ、9世紀(894年)には、国交を断絶し、国としては明治の開闢まで、ずっと長い鎖国政策をとってきたのです。
(民間交易や将軍クラスの交易はありましたが、天皇による国交は明治まで一切ありません)。

私たちは、そういう歴史を直視し、同時に、海外においても、そういう歴史を日本人なら誰もが堂々と展開できるだけの知識を、日本人の常識として、あるいは世界に向けて真実の常識として、定着させていかなければならないと、私は思います。
なぜならそれが事実だからです。

歴史がどうあれ、出自がどうあれ、日本人としてあるいは人として、民族の別なく、郷に入っては郷に従い立派に生きて行こう、真人間になっていこうとする人であれば、私たちはそれを受け入れ、同胞として一緒に仲良く生きて行こうとします。あたりまえのことです。

けれど、史実を歪め、嘘をまき散らし、人々に害を与え続けるならば、たとえ付き合うことがどんなに経済的にメリットがあろうが、それは付き合うべき相手とはいえません。
これもまた、あたりまえのことであろうと思います。

ちなみに経済という語は、もともとは経世済民からきています。
経世済民とは、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」ことです。
いまではすっかり所持する貨幣の多寡が経済の意味になってしまっていますが、これさえも、もとをたどせば江戸時代までは米が経済の中心でした。
いまはお金持ちというのは、お金を沢山持っている人のことを言いますが、江戸時代までは、米をたくさんもっている人が経済力のある人でした。

人間が食える量なんてのは、金(gold)と違って、限りがありますし、お米はただほっておいたら腐ったりネズミの餌になるだけですから、それを使わなければならない。そして飢饉など、いざというときにお布施米としてそのお米を供出できる人が「経世済民力のある人」でした。
貨幣がなかったわけではなくて、貨幣ではなく、そういうことを大切にして、千年以上の長い年月にわたって国づくりをしてきたのが日本です。

わたしたちはそういう国の歴史、先人たちが築こうとした国の歴史をもういちど謙虚に学びながら、国の体制や国交の在り方について、もういちど抜本的に考える。そういう時期にきているのではないかと思います。




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